明治の相撲~土俵入りの謎~
2月24日で11代横綱の不知火が亡くなって145年となる。写真が残る横綱として最古の部類であり、不知火型土俵入りに現在も名を残す。そのためか明治期までの横綱としては雲龍と並び名前だけは知られている。
不知火という力士は多くおり、同じ熊本出身で8代横綱の~諾右衛門、文化元年に亡くなった~光右衛門、福岡出身で大阪相撲の大関だった不知火光五郎といる。いずれも上位力士であってか混同されがちであり、福岡県嘉麻市の寺には光五郎の墓碑が存在するが、横綱の不知火と誤認されることも多いようだ。
11代は特に土俵入りが華麗だったと伝わり、いわゆる現代につながる型の始祖だったともいわれるが、正確な所ははっきりしない。
現在横綱の土俵入り(手数入り)には2つの種類がある。雲龍型と不知火型で、雲龍型はせりあがる際に腰を割って左手をわき腹に当て、右腕を右前方へ出しせり上がる土俵入り。不知火型は腰を割って両腕を外側前方に出して、そこからせり上がるもの。雲龍、不知火の型が美しかったといわれ、その名前が残ったのが本当の所のようだ。
不知火の土俵入りはどんな形だったのか。
丸上老人といわれる江戸末期~明治までの角通がいた。商人ながら40年1日も欠かさず江戸本場所を観戦したとされ、晩年に証言を残しているが、実見しているだけに貴重である。HP「相撲評論家之頁」中の横綱物語(明治37年に東京朝日新聞に掲載された)によると
ここからわかることは、従来の横綱は四股を踏んで右手を前方に出し、左手は下腹部までの動作は今の型と同じである。ただ不知火以前の横綱は右手を前方に出して、左手は下腹部につけるものの、時間をかけることなく体を引き立てる、つまりすぐに直立の体勢に直っていたのではないか。
腰を下ろすこと=時間をかけることとも考えられ、腰を下ろしていたかどうかも微妙である。前方というのも現在と同じく右斜めの方向を指すのか、正面かは定かではない。池田雅雄氏の解説にもあるように幕内土俵入りの所作を一人で演じているに近いものではないか。そこを不知火は工夫を凝らし直立するまでに時間をかけ、腰を下ろした体勢からゆっくりと直立にもっていったと愚考する。
四股を踏んだ後に時間をかけて動作を加えることで、これまでのあっさりとした土俵入りと比べ見所ができ、たとえ現在からみてぎこちなくとも評判をとることは想像できる。
丸上老人の談話を引用している明治33年の「新編相撲叢話」にも
やはりこの説明でも膝頭(ひざこぞう)に手を当てて手を前に切る(前方へ滑らせる)というあたり、不知火以前は右→左→右と四股を踏んで、土俵中央での動作が終りだったともとれる。不知火の現役時より30年程後の証言であり、実見した者も多くいた頃であろう。
最近読んだ、武侠世界大正11年春場所号には「五十三か年の土俵生活」として前年に引退した17代木村庄之助の回顧が5ページにわたって掲載されている。入門時の思い出も色々とあるが当時の横綱であった不知火の印象が強く
不知火の土俵入りはとにかく良かったと言われるがその一つに美男子ぶりがあったようだ。正直写真で見る限り納得できない部分もあるが、いくつもの文献に同じくある。当時としてはこれがよかったのか。思うに体格面も見栄えにとってプラスになったと考える。17代庄之助は文久2年生まれ。不知火の土俵ぶりを見た世代としては最後期ではないか。
不知火はじめ土俵入りの型についてもう少し考えたい。
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