立行司の失態
初場所昇格の木村庄之助は長く上位の土俵を裁いているが、とにかく失態が多い。名裁きというより失態の多さで名を知られている。立行司ながらこのような失態は長年続く権威や名跡を汚すことでまずいのだが、過去の立行司を見ると意外と逸話を残している行司はいるものである。
根間弘海氏の『大正期の立行司を巡って』は題の通り大正期に昇進の立行司の進退のいきさつ(12代伊之助、17代庄之助、18代庄之助、14代伊之助)を分析している。
その中で12代伊之助と18代庄之助は軍配裁きの評判があまり良くなかったようだ。特に12代伊之助は見越し軍配の名人と評されたが、これは皮肉が多分に効いている。一聞すると勝負の見方を称賛したと思われたがどうも違うようだ。
国見山と四海波の件は昭和15年発行の「大相撲鑑識体系」の第四話・明治時代の國見山悦吉の項に詳細があった。國見山は色白の美男、温厚で知られ、勝負を巡ってトラブルを起こすことはなかったのだが(当時は判定を巡って一騒動はよくあった)この時ばかりは収まらなかったようだ。
見越し軍配と評されるあたり、このようなことは頻繁にあったのか。ビデオ判定もなく、一部の権力を持つ親方や力士の主張が通る時代だけに勝負判定も大雑把だった。『大正期の立行司を巡って』では伊之助昇格のいきさつに触れているが、過去の祟りを恐れて(6代伊之助に関する怨念)昇格を固辞し、誠道の名のまま立行司相当の扱いとなり「追弔会」を催した上で襲名したという。誠道は偉丈夫な所は長所だったようである。
さらに18代庄之助は昇進前の三役格朝之助時代に大失態を演じている。ウィキペディアにも記載あるが詳細を記す。
大10夏7日目の大錦三杉磯の取組。廻し待ったをかけたが動作が曖昧だったか不十分で、控え力士が分けと知らせたため、両力士分かれてしまう。待った前を再現といっても廻しも締め直してしまい、検査役はじめ議論となり長引き、朝之助も組み手を忘れてしまった。50分にもわたり協議が行われ、三杉礒は「もう相撲は取らぬ」と引き揚げてしまい、取締友綱(海山)が「負けとした上破門する」と叱り土俵に上げるなど紛糾の後、大錦の両差しで再開。大錦は吊りを見せるが右四つになった。検査役や控え力士は水入りを指示したが、朝之助は廻し待ったと勘違いして三杉礒の後ろ廻しを引っ張ってしまう。引き分けと思った三杉礒はさっさと土俵を下りるが、大錦は訳が分からず仁王立ちで朝之助を睨めつける。検査役は慌てて再度引き分けを伝えた。 水入りなしの引き分けも異例なら、計 2時間 5分という長さ。ある意味騒動の中心の朝之助は、木村瀬平に連れられ、出羽ノ海・友綱両取締へ進退伺いを提出。 役員からは「相撲始まって以来の大失態である。特に大錦は優勝掲額が懸かっているからなおさら問題だ」、次場所からは顔触れ専門にせよ(書道に巧みだったらしい)という意見まで出るほどだが、 結局は 8日目の出場停止で収まった。
しかし朝之助は次の場所には何と18代木村庄之助に栄進。 17代庄之助はこの場所5日目の差し違えで引責辞職(これも大錦の取組によるが辞意のきっかけは別にあったともいう)、12代伊之助は引退という幸運によるものだった。友綱取締、名呼出といわれた勘太郎もこの場所限り引退するなどある意味時代の転換点であった。
朝之助の一連の騒動は昨年やおととし名古屋の伊之助を思い起こす。
おととしの照ノ富士若元春戦は廻し待ったの不十分、昨年は廻しの締め直しに難儀し、軍配が房を抜け土俵に落ちた。どちらも立行司として重大なこと。世が世なら辞職につながってるだろう。照ノ富士の相撲は國見山のごとく、コツンとやられてもおかしくない次第であった。体調面から不本意な土俵のようだが庄之助としては有終の美を飾ってほしい。
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