ひとことはなし6

2022年4月27日

コロナ禍になり、全くお顔をみる事ができなくなった妻の母親と、昨日、久しぶりにお会いできました。

なんか小さくなられたな、という印象を受けました。
腰を悪くされ、動くのも大変な日があるとの事でした。
妻の状態を心配されていたので、近況を報告させて頂きました。やはり、いくつになっても、我が子は心配なんだなあと感じましたね。親心です。

妻の実家は大阪ですので「大阪の母」と、いつしか呼ぶようになりました。
僕はこの母には、とても感謝しております。
理由ですが、僕みたいな病気持ちで、財産も収入もない男に、よくぞ大切な娘を託してくれたな、と、感謝するのです。私の娘が結婚適齢になってきて、そう思いました。

「妻は、だんだんと元気にして頂いております。御安心ください」と、お伝えしたら、大変安堵された様子でした。やはり姿が見えない、というのは想像しかできませんから、きっと相当心配されていたのだな、と思いました。

で、考えたのです。妻が、もしあの時命を落としていたら、大阪の母に顔向けができないな、と、そう思いました。

天理教では

かしもの・かりもの

という教えがあります。

自分のものというものは「心」のみ。
すべては親神様からの「かりもの」なんだと思った時、妻は神様から、私に一代貸し与えて頂いた「かりもの」つまり、借りている人。なんだと。

又同時に、大阪の母からの「かりもの」でもあるのだな、と思いました。

社会では、妻や夫は自分のもの。ましてや子供は自分の所有物、と勘違いしている人はいますね。

思い通りにならぬは、かりものの証拠」と、あります。

又、「かりもの」と分かれば大切に扱います。が、自分のものだと思えば自分の思い通りにさせよう、となりませんか。これが誤りなのだと、神様から教えて頂きました。

お互い「かりもの」なのですから、貸主に安心してもらう。又、相方や子供。又、物に至るもの全て「かりもの」なのですから、大切に使わせて頂きたいものですね。
終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?