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シェイクスピアの『ハムレット』におけるオフィーリアの髪と「水」の形象

 

髪を垂らす女性


 前回は、イヴの髪が飾りもつけず櫛を入れることもなく、その細い腰のあたりまで、ヴェールのように垂れていたことに注目しました。今回は、髪を結わずに垂らす女性のイメージを他の文学作品―シェイクスピアの『ハムレット』―でみてみましょう。それに含意されるエロティシズムをみるためです。
 シェイクスピアの『ハムレット』の上演では、大概、気が狂ったオフィーリアは髪をなびかせています。シェイクスピアの時代においてもそうだったようです。

女性は水


 中世以来、女性は体の中に水分が多いから髪が(男性よりも)長く伸びると思われていた、というお話を以前しました。これは、この世のものはすべて4つの元素(火、空気、水、土)でできているという考えに拠っています。この考え方において、女性は「水」でした。
 それゆえ、文学の中で女性はしばしば水のイメージでとらえられました。フランスの哲学者のバシュラール(1884―1964)は、『水と夢』において、文学的想像力のなかの「水」のイメージを渉猟していますが、オフィーリアの溺死の場面も取り上げています。バシュラールが論証するように、「水」は、文学においては、マゾヒスティックな自殺の元素としてあらわれます。「水」が女性を死に導き、同時に、「水」が女性を優しく包み込むのです。
 

オフィーリアの溺死


 オフィーリアが溺死したのは、偶然ではありません。自らの元素である「水」に惹きよせられ、そこに戻っていったのです。イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレー (1829–1896)が描くオフィーリアの溺死の絵において、オフィーリアは、まわりの風景に融合し、水の流れの一部となり、水に抗う素振りもみせません。彼女は水そのものになったのです。
 また、オフィーリアが溺死したことを知った兄のレアティーズは次のように言います。
  Too much water hast thou, poor Ophelia,
   And therefore I forbid my tears.
 「水はもういいだろう」と言って、涙を流すまいとするのです。
 オフィーリアが「水」であることは明らかですね。だからこそ、彼女は髪をふり乱しているのです。髪もまた「水」なのです。

水は情欲


 エロティシズムの話が最後になってしまいましたが、実は、体の中に水分が多いというのは、情欲のあらわれでもありました。さらに、16世紀において、女性の狂気は情欲の結果であると思われていました。男性の狂気は知性の結果だったのですが。
 オフィーリアはハムレットに「尼寺へ行け」と言われました。このセリフの意味は重層的で一つの解釈に収束させるのは困難ではありますが、確かなことは、ハムレットはもはやオフィーリアとの恋愛関係を続けている意思はない、ということです。ということは、オフィーリアのなかの情欲が行き場を失ってしまうということです。それゆえに彼女は気が狂ったという解釈も可能なのです。尼寺が売春宿の暗喩であるとすると、ますますそうなります。

長い髪をふり乱す女性


 「長い髪をふり乱す女性」におけるイメージの連環を理解していただけましたでしょうか?
 『失楽園』のイヴに話を戻しますと、禁断の木の実を食べる前であるにもかかわらず、髪を垂らしているイヴははすでにエロティックであるということになります。『失楽園』の外に出なくても、それは証明できるのですが、他の作品を参照すると、イメージがより明らかになります。
 現代の作品を読むのとは異なり、古い作品は文学的convention(しきたり)や伝統に関する知識を総動員して読まなければなりません。勉強が必要なのですが、だからこそおもしろいのですね。


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