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鷲田清一「『聴く』ことの力」TBSブリタニカ

筆者は「聴く」という行為を臨床哲学という形で体系化しようとしている。この哲学を展開するために基礎となっている考え方はホスピタリティーであり、哲学的な背景はメルロ・ポンティ、レヴィナス、シュレールなどの哲学者となっている。

「哲学はしゃべりすぎた」「語ることがまことの言葉を封じ込める」「哲学の中枢神経は〈メタ〉であり、自己批判から始まらなければならない」「言葉を届かせようとして声を大きくしたりすればするほど声は届かなくなる」「余裕とか遊びがなくなって、細かく説明すればするほど通じなくなる」「人は沈黙にたえきれず、虚空にむかって言葉を打ち放つが、心には届かない」といった言葉を投げかけながら、「聴く」ことの力、「聴く」こと=哲学実践であること、伴走者としての営みを核に据える思考、受容・受動がもつポジテイブな力、負債の反義語としてのホスピタリティ、無条件のコ・プレゼンスといった考え方を紹介している。

本著のなかで俺が「なるほど!」と思ったのはhumanの語源がラテン語のhumus(腐食土)であり、同語源のhumility(謙虚)は地面に近いということから謙虚につながるということである。シンパシーが元々「共に苦しむ」という意味があるように、人はどこまでも自分の低さに留まって他者への想像力を失ってはいけない。

シンパシーが届かない地点においてもなお、他者に手を差し伸べることが「無償のホスピタリティー」なのだ。最後に筆者のメッセージがよくあらわれている部分を抜粋しておく。

「ことばは、聴く人の「祈り」そのものであるような耳を俟って初めて、ぽろりとこぼれおちるように生まれるのである。苦しみがそれを通して現われ出てくるような≪聴くことの力≫、それは聴くもののことばそのものというより、ことばの身振りの中に、祈るような沈黙の中に、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語る人の行為であるとともに、聴くひとの行為でもあるのだ。」

<メモ>

・寺山修司曰く「私達が今失いかけているのは、「話し合い」などではなくて「黙り合い」なのではないか」

・「間」は自他を隔てる壁ではない。「自己調整」の空間だ。・ポンティ曰く「私の声は私の生涯の総量に結び付いている」

・ことばから<意味>というものが脱落した時、その時に初めて私たちは<声>を聴く。

・患者にとっての非日常が、看護師にとっての日常である。つまり日常と非日常が反転する蝶番の場所にいるのが医療現場といえる。よって「燃え尽き」も起きやすい。

<お薦め本>広井良典「ケアを問い直す」・メルロポンティ「シーニョ」・北山修「自分と居場所」・レヴィナス「全体性と無限」

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