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途切れたミュージシャンへの道

大学へ入って、何はさておき軽音楽部に入ったが、中学高校と気のあった仲間と組んでいたバンドとまるで違った。
自分の嗜好の合いそうな、既存のバンドに入って先輩から指導を受ける形だった。
私は音楽ジャンルの知識は乏しかったので、とりあえずボーカルを強く求めているバンドに入れて貰った。
先輩のテクニックは、今まで経験していたレベルを遙かに超えていて、その中で1年ながらメインボーカルをつとめさせては貰ってはいた。
しかし、将来一緒に同じバンドを担うはずの、二人の同級生とは相性が合わなかった。
プログレッシブロック系の指向はTOTOはまだ良いのだが、Camelは当時の自分にはそれほど魅力を感じなかった。
因みに、当時の自分はビリージョエルが好きだったが、とにかく、エリックカルメンなどの聴かせるボーカルを目指していた。

私は中学校から洋楽や日本のフォークやロックにのめり込んでいった。
同じように音楽好きの同級生のヒロと仲良くなり、二人で放課後に教室や公園で練習したりした。
今も持ち続けて使っているyamakiのフォークギターは、ヒロが楽器店で弾きやすいのを選んでくれたものだ。
彼自身はボーカルでは音が外れていたが、音楽のセンスは抜群で、ベースをやっていて、彼が私にとって指導者でもあった。
ヒロとは互いの家に呼び合う仲で、彼の別の趣味の六甲山縦走に付き合ったりしたが、その時はヒロの家に泊まったりした。
そして、ヒロには二人のきれいな姉がいて、家に行けばそのお姉さんに会えるのが楽しみだったし、取り次いでくれる電話で声を聴くのが楽しみだった。

高校1年の時、二人は同級生とバンドを組んだが、まるで駄目で文化祭の体育館ステージのオーディションにも落ちた。
オーディションに落ちたバンドのための野外ステージも、ほとんど観客は来てくれなかった。
高校2年の時、文化祭のために、二人は3年生3人とバンドを組んで、体育館ステージにも立てた。
バンド名はビートルズの曲からとった「The  Helter Skelters」で、実際にその曲も演奏した。
3年生の先輩の一人は吹奏楽部の部長だった人で、サックスとサイドボーカルでリーダーだった。
このサックスで厚みが出て、先輩の女性ファンも加わって盛り上がり大成功だった。
因みにこの時のリードギターの先輩は、バンド活動を大学進学や就職した後も続けて、アマチュアバンドで今も活躍しているはずだ。

その後、二人は別のバンドにいた3年生のギタリストのスケちゃんを中心に、同級生のドラムを入れて、ラジオ出演に臨んだ。
バンド名は「スケちゃんバンド」で、当時、バンド出演が出来ていたラジオ番組で「キダタロー ミキサー完備 スタジオ貸します」に出演した。
出演曲はラズベリーズの「Exstacy」とグランドファンクレイルロードの「Hertbreaker」だった。
キダタローさんは、わざわざミキサー室まで行って、私の生の声を聴いてくれて、批評で褒めてくれた。
演奏自体は、練習不足でリズムがちぐはぐだったが、私にとっては一生忘れられない経験であり自信となった。

高校3年生では、二人は高2だった私の弟や、同級生を誘って野外ステージをメインに文化祭に参加した。
バンド名は一年浪人覚悟の意味で、「The イチロー」だった。
イーグルスのHotel Californiaも完全コピーで演奏したり、皆が盛り上がるようにロックロール系を演奏して大成功だった。
この時に、飛び入りでステージに上がって踊ってくれたスージーと仲良くなった。
スージーは隣の女子高校のアメリカからの留学生で、短い金髪のきれいな女性だった。
スージーとは喫茶店や電話で話をしたり、一緒にアマチュアバンドの演奏会にも行ったが、彼女にはアメリカに彼氏がいて発展することは無かった。
彼女のおかげで、英語の会話が少しは上達できて、その経験から外国から来た人を、友達に持つことができた。

こういう風に、音楽にのめり込み、女友達と仲良く過ごしたりして、当然ながら大学受験は失敗した。
同じように浪人したヒロと同じ予備校に通って、軽音楽部から多くのプロを出している早稲田大学を目指した。
しかし、合格したのはヒロのみで、私は唯一合格した名古屋の私立大の北山大学(仮名)の人類学科に行かざるを得なかった。
因みに、ヒロは早大で軽音楽部に入ったが、プロにはならず研究の道に進んだ。

結局、北山大学では学内のコンサートの舞台で一度歌ったきりだった。
演奏も、歌詞を憶えず友達のアキラに客席で歌詞を書いた模造紙を持って貰い、ポケットに手を突っ込んだままで歌った。
それが不評買い、演奏会の打ち上げで、他のバンドの女性の先輩から叱られた。
そんなこともあったりして、軽音楽部は、結局肌に合わないということで辞めることにした。
当時、本格的にプロを目指していたドラムの先輩は、学外のバンドにも所属していて、そちらがメインだった。
実は、軽音楽部を辞めた理由は、このドラムの先輩と憧れの女性キーボードの先輩が恋人同士と勘違いしたことの方が大きいかもしれない。
それは後に、卒業したその先輩が文化祭にフィアンセを連れてきて、紹介してくれて初めて思い違いが分かった。

自分もドラムの先輩のようにできれば良かったのだが、当時大いなる田舎と言われ、海外のミュージシャンにも素通りされていた名古屋で、活動する気にはなれなかった。
ただ、当時名古屋の中京大学には雅夢がいて名曲「愛はかげろう」が大ヒットしていた。
そのユニットの三浦和人は、自分の地元のもっと農村部出身者だったと後で知って、自分の誤りを恥じることになる。
辞める際には、ドラムの先輩からまたどこかのコンサートの演奏で会えるだろうと言って貰ったが、私のミュージシャンへの道は途切れた。
東京の大学の大学院時代に、自分の歌うカラオケを聴いたその大学の学部出身の先輩が、業界の知りあいを紹介してあげようかと言ってくれた。
自分は、修士論文の作成中で、そんなどころではなかった。
因みに、私の一歳上のヒットメーカーの織田哲郎は、この大学の附属高校出身者で、高校時代から活躍していたようだ。

大学時代に出会った同じ学科のベーシストのアキラは、自分が吹奏楽部にいるのを引き抜いてきたのに、一緒に辞めることを強いてしまった。
アキラは文化人類学研究会の考古サークルで活動を始めた。
自分はとんだ思い違いで剣道部に入部して辞めた後に、彼とは同じ会の村落調査サークルで活動するようになった。
その後、私は別のサークルにいたアキラを、またもや自分のサークルの同じ班に引き抜いた。
その後、大学卒業するまで村落調査を一緒に続け、同じ学会に入って今でも研究仲間で居続けている。
彼は最近バンド活動を再開して、その演奏写真を見せてくれた。
長髪の白髪になったアキラの姿に驚いたが、羨ましくくなり、自分も後に続こうと心に誓った。

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