あの頃僕は若(BAKA)かった
私は、母親から生まれ年がイノシシなので、猪突猛進するのだと、よく怒られていた。
当然、干支が亥の人が、みんな猪突猛進型ではあり得ないだろうから、生まれ育った環境がそうさせたのだろうと思う。
父親ともぶつかりながら、大学や大学院までは何とかやっていけていた。
極めつけは、かなとの駆け落ちだった。
本当はその時点で守りに入るべきだったのだ。
かなとの暮らしを守るためには、それを助けてくれそうな人には、きちっと従うべきだった。
ところが、大学院時代の自分は、それとは真逆のことをしてしまっていた。
私の所属した研究科のトップは、X先生だった。
先生は学会でも名だたる人で、専門の辞典などの編集に名を連ねるような方だった。
先生はお忙しい中、執筆も行われていて、朝方だったので、午後9時には眠っておられた。
ある先輩が必要な連絡があって、午後9時頃に電話をおかけしたら、「今 何時だと思っているんだ」と叱られた。
先生は就職の世話もしてくれるような、面倒見が良かった方なので、誰も反発はしていなかった。
しかし、それは博士課程の人に対してであって、修士は「馬の糞」と言っておられた。
博士課程だけを、正月に自宅に呼ばれて、年始の挨拶を受けておられた。
要するに、博士課程に上がって初めて一人前というのが、常識だったのだ。
その馬の糞の私たち修士が、先生の自宅に呼ばれることになった。
それは、先生が出版した本が新聞社の賞を受けたので、その受賞パーティーの下働きをしたからである。
下働きをしたのは、若手の博士と修士全員だった。
その労をねぎらってくれて、自宅で飲み会が行われた。
先生は大切な壺入りの泡盛まで出してこられて、ご自分もかなり酔われていたし、私もかなり飲んでいた。
ここで、また私の悪い癖で、権威ある方に逆らうようなことを言ってしまった。
怒った先生に
「おまえは八雲(大学院の博士課程)には入れない」と言われ、
「この歳になって おまえのような 馬鹿でも(修士にいることを)許せるようになった」
と私は言われた。
そこまで言われるとその場では、酔いが醒めてしまって、黙り込むしかなかった。
ただ、その二日後に書いた当時の日記を読むと、
やっと 先生に自分の存在を認めて貰ったことや、自分を自分で追い込むショック療法でやる気が湧いたことが書かれてある。
確かに、その後研究室でX先生は、酒を飲んで私を罵倒したことを謝ってくれた。
私も先生の性格をよく知っていたので、恨むことは無かったが、いっそ修論に対する気負いが増してしまった。
そして、良い修論を書くために、もう一度調査に行くことを決意していた。
ただ、当時2年上の修士課程の先輩で、大学院の仲間よりも、先生方に媚びへつらう人がいた。
先生には気に入られてはいたが、気に入られることに力が入る一方で、肝心の研究は上手く進まなかった。
というのも、実際に研究のアドバイスをしっかりとしてくれるのは、博士の人であったからだ。
彼はその博士の人からは嫌われていた。
研究会の下働きなどをきちっとしていなかったからだ。
我々修士は研究会が開かれるときに、参加者から300円集めて、ビールとつまみを買い出しに出て行った。
また、研究会から出される年報の文献調べや、校正にも奉仕していた。
そういうことをあまりしなかった彼は、博士からは見放されていた。
そして、良い修論が書けずに去って行っていた。
要するに、先生に気に入られているだけでは、良い修論は書けなかったのだ。
この先輩のこともあって、先生より博士の人に気に入られる修論を書こうとしたのだった。
しかし、修論はともかくとして、人間関係としては先生には敬意を払っておかねばならなかった。
そういう意味では私はただの若造でしかなかった。
自分は大学や大学院で教わった先生ほど、地位名誉もないし、経済力も無い。
だから、職場の学校で、若い先生から邪険に扱われることも少なからずあった。
経験の乏しい若い世代に、不遜なことを言われることが、どんなに嫌なことか思い知っている。
若いときには、それが分からなかった・・・・・
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