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もう一度 グリーンエリアで

私の通った北山大学は、名古屋の東のなだらかな丘陵に校舎が建っていた。
私の叔父が名古屋に住んでおり、その叔父を頼って現役の時は名古屋大学を受けたが失敗し、浪人してこの大学を念のために受験した。
北山大学への受験対策はなにもせず、英米学科もリスニングがあることは願書を出す時に知った。
もちろん、英米は不合格で、人類学科は浪人して唯一合格した学科となった。
結局、国立大学や早稲田大学には落ちたので、人類学科に行くことにした。
叔父にはもう一年浪人して国立を目指すように言われたが、もう浪人生活はうんざりだった。

浪人生活は神戸で住み込みの新聞奨学生から始まったのだが2ヶ月も持たず、自宅から遠くの予備校に通った。
その予備校は、中島らもの後輩達がいっぱい通っていたし、講師にもその学校の退職教師がいた。
浪人生活ではさすがにバンド活動は出来なかったし、恋愛が出来るほどの気持ちの余裕もなかった。
そんな味気ない生活をもう一年するくらいなら、不本意でもその大学に行こうと思った。
そもそも、この大学がどういう大学で、人類学科では何を勉強するかさえ知らなかった。
大学へはバンド活動を再開するのが最大の目的で、就職はあまり考えていなかった。
さすがに、大学に通い始めてオリエンテーションで、人類学科の就職は殆ど無いと聞かされた時はショックを受けた。
学年40名ほども女子学生が殆どで、男子は10名ほどだった。
今まで、高校は男子校で予備校も殆ど男子だった自分には、全く別世界に迷い込んでうろたえる場違いの学生でしか無かった。

下宿は地下鉄いりなか駅近くの喫茶店ルフランの裏にある叔父の借りているアパートだった。
そこは叔父夫婦が以前は住んでいたが、当時は叔母の経営する喫茶店の物置といとこの勉強部屋として使われていた。
風呂も壊れていて使えず、銭湯も歩いて30分ほどかかった。
大学は歩いてすぐだったので便利であったし、食事は喫茶店で叔母に食べさせて貰っていた。
要するに同居しない居候であった。
そんな暮らしは、同じ学科の池上君が自分の住むアパートの一室を間借りさせてくれることで解決できた。

そのアパートは美池荘という名前で、地下鉄池下駅から10分ほどの所にあり、大学までは自転車で20分ほどかかった。
大学2年からは一人でそこに暮らすようになって、かながよく訪ねてくれた。
かなとは学年が違い、授業ではあまり一緒にならなかったし、校内でずっと一緒に過ごすタイプの二人でも無かった。
ただ、昼食は同じ学食で食べたし、時々二人で並んでグリーンエリアの芝生の上で過ごした。
私が一番好きだったのはこのグリーンエリアで、気候の良い時などはゼミをそこですることもあった。
かなは私の横に座って、よく芝生の葉や茎をかんでいた。
自分でも「草かみのかなちゃん」と言っていた。
同じように芝生をかんだり、寝転んだりしながら、かなと過ごした時の二人の姿を、今はまるで絵画のように心に飾り続けている。
不本意で入った大学での日々が、人生で一番幸せでかけがえのない時間となった。

私には何とかかなえたい夢があって、それを思いつつ、今も研究に励んでいる。
今執筆途中の研究書に、かなへの謝辞を必ずのせようと思っている。
実は前作の研究書では、かなの名前を謝辞に加えなかった。
その頃の私は彼女の記憶さえ、あえて葬り去っていた。
そして隠していた箱から記憶を蘇らせると、どうしてもかなへの謝辞を書かねばと思ったのだ。
その書を渡すことが彼女への心からの感謝とお詫びの気持ちでもあるし、会える唯一のきっかけであると思った。
その書を渡す時に、もしできるのならグリーンエリアで逢いたい。
何とか連絡を取って、大学祭はホーム・カミングデイで卒業生も集える場とされているので、それにかこつけて逢えればと思っている。
今は、かながどうしているのか、どこにいるのかかさえも分からない。
あえて探す勇気や、まだきっかけとなる書もできて無い。
だけど、グリーンエリアで二人並んで過ごした場面を心に抱きながら、かなうかもしれない奇跡を信じ続けている。



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