共感覚か連想か、どこまで共感覚なのか(ほか)の話

私は、数字やアルファベット、漢字、ドレミの文字、曜日などに色のイメージが浮かぶ。
匂いや音色にもなんとなく。音階には浮かばない。
味にも、色のほか、形が浮かぶ気がする。

舗装された歩道には、白線で描かれた三角形が幅いっぱいに敷かれるイメージが浮かぶ。
歩道の左端にまっすぐな塀や敷居があったり、何かしらの境やカドが程よい長さで直線に結ばれたりすると、それらが底辺となり、歩道の右端に頂点が接して三角形になる。
アスファルトの補修跡やマンホール、街路樹、ガードレールなども変則で結ばれたりする。
すべて無意識で瞬時に、そして次々と映像が脳内を流れる。
気付くと、三角形の線を踏まないように歩いている時がある。

昔、「共感覚」という用語を見聞きした。
私の脳裏に、無意識に浮かぶ色や三角形は“ソレ”なのか、と考えたこともあったが、その時の説明はずいぶん、大層に思われたので、やっぱり、違うかな、ただの連想か、と思って終わった。

最近になって、ふと、また、思い出し、SNSを検索してみた。
「共感覚」の研究はずいぶん、進んでいて、未解明な部分が多いとはいえ、定義や適用範囲、分類等がかなり、構築されていた。また、ある種の連想も含むとする考え方があるらしい。
昔は研究が進んでいなかったこともあり、「共感覚」の持ち主は何万人に一人、などといわれたりしたが、今は、20数人に一人ではないか、また、自覚してない人もいるだろうから、なんだかんだで、もはや、珍しくはないのではないか、ということのようだ。
それくらいポピュラーならば、やっぱり私の“コレ”は、「共感覚」といえるだろう、と思った。

私の“コレ”を共感覚であると前提して、いろいろ空想してみた。

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「共感覚」が強い人は、浮かんだイメージに気分や考えを左右される場合があるそうだ。
例えば、対象から想起される色がどうにも不快で、その対象を避けてしまうとか、5+3の答えを7としてしまうとか。
5+3=7というのは、その人が例えば、5に赤、3に白の色が浮かぶとすると、赤+白という式にも見える。答えは調合されるピンクとなり、ピンク色の数字はその人にとって7だった、という理屈と思われる。

私自身にも、もしや、と思えることがある。
私はとっても怖がりだ。子どもの時は、しばしば、繊細ね~、とか、気が小さいね、などといわれることがあった。
原因はただの気質だとは思うが、共感覚が不安感などを煽っていた、とも考えられないだろうか。対象物を見て、ネガティブな気分になる色あいを感じ、不安感が生まれた、みたいな。
その逆もあるかもしれない。私は調子にのりやすいところがあった。対象物に気分の揚がる色あいを感じ、対象を実際以上に陽気で気楽なものと勘違いし、浮かれてしまった、とか。
‥ないだろうか。ないか‥。
私はよく、考え過ぎ、といわれる。こういう風に発想が飛びがちなところだ、多分。

大人になった今でも怖がりな性格は変わらないが、さすがに共感覚で煽られているとは思わない。
ただ、まったく何もないわけでもない。
例えば、私の知り合いに「大熊さん」という女性がいる。温和でおしゃべり好きな人だ。その人は何かに例えるなら、穏やかに揺れるヒマワリだ。
だが、彼女の名前(※)には黒い色のイメージがある。
漢字の「大」、「熊」ともに私は黒い色を感じる。そのためだと思う。「大熊」は黒×2なので、全面的に黒、みたいな感じ。
名前のイメージを含めて彼女を捉えなおすと、真っ黒な名札をつけたヒマワリみたいな人、みたいな感じか。
もし、上司や厳格な人で「大熊さん」という人がいたら、全体的に固い感じを受けて、少し、緊張するかもしれない。


なお、ここで取り上げている名前や、後述の地名、名称などは、あくまでもただの無機質な単語、または文字の集合として取り扱う。
それらについて私が語るイメージは、私の共感覚(とみなす)によるに過ぎないことをお断りする。それらの本質に関するイメージなどでは決してない。

地名も、あえて意識すると次のようになる。
例えば、
「愛知県 _ 春日井市 _ 山田さん」
は、
「赤県 _ 黄みがかった白市 _ 柔らかい色味の黄さん」
‥みたいな。
漢字や文字の一字ずつにそれぞれの色を感じているのだが、総合して名称全体に対してもある程度、イメージが定まる感じだ。

例えば、「愛知」が全体として赤く思えるのは、「あ」や「愛」に赤のイメージがあり、その色の主張が強いからな気がする。「知」は白色だ。「愛」の4分の1くらいのサイズで「愛」の右下に寄り添っているような感じがする。
「山田」は、柔らかい黄+黒だ。この苗字の顔は「山」に思えるので、苗字全体は「山」の色になるっぽい。

同様に、「大阪」は黒色。多分、前述の「大=黒」の影響が大きい気がする。「阪」も黒か灰色だが「大」の相棒みたいな感じ。因みに「坂」だと白色で、板のような固い感触も浮かぶ。
「福井」は、やや水色がかった白。「f」や「ふ」に水色がかった白が浮かぶので、その影響か。
「福岡」は白:黒=3:7くらいのツートーンで、黒の上に水色がかった白が乗っている感じ。
「高知」は青黒く、「宮城」は朱色。「高」に紫の光沢のある黒、「宮」に赤瓦の色のようなイメージがある。
「青森」は青と同時に赤も見え隠れする。多分、漢字の「青」そのものと、リンゴらしき赤が連想で混じるのかもしれない。

因みに「a」も赤い。「か」も赤だ。
「あ,a,か」すべてが赤だ。それはつまり、「赤(あか)」の音からの連想なのでは、と思われそうだが、自分でもよくわからない。
試しに、続く「い」はベビーピンクで、「う」は濃い青、「え」はオフホワイト、「お」は黒だ。
同様に、
a 赤
b 透明感のある黄
c 黄みがかった白
か 赤
き 褪せた黄、または渋みのある黄緑
く 青み、または灰色がかった黒
‥‥‥。
何がいいたいかというと、連想っぽい色もあれば、連想っぽくない色もあり、結局、なんだかわからない、ということだ。

因みに、「東西南北」の漢字は、東が白っぽい黄、西は灰色がかった藤色、南は濃い青、北は黄緑だ。陰陽五行説の四神の色を知った時は妙な感じだった。
「春夏秋冬」の漢字は、季節のイメージ通りの色のようだった。春がまばゆい薄ピンク、夏は赤、秋はオレンジ、冬は薄い水色。こちらは自分でも連想の色なんじゃないかと思う。

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ところで、文字 や 言葉 などに感じる色は、文字や言葉の意味とか位置、文章全体の内容などによって変化しないだろうか。

例えば「6」と「六」という文字は、多少、質感に違いがある気がするが、どちらも黒に近い茶に感じる。
以下、例を考えてみた。

「165cm」
「四六時中」
「雪の兼六園も美しい」
「六朝(りくちょう)時代から出題」
   ↓
「褪せた白 _ 黒に近い茶 _ 黒 cm」
「赤 _ ほぼ黒の茶  時中」
「雪の兼 _ 茶 _ 園も美しい」
「黄緑がかった茶 _ 朝時代から出題」

やっぱり、茶色は基本のようだ。
だが、色味が微妙に変わる気がした。自分でも発見だ。
色味の変化の理由はなんだろう。
やっぱり、周囲の文字からの影響や、言葉の意味、文章の意味からの影響か。
そんな影響があるのだとすれば、ほかの文字も、それぞれに色などのイメージがあるので、すべての文字が全体的に影響しあい、影響されていそうだ。
逐一、イメージして検証すれば、何か見えてきそうな気がする。

次に「月曜日」、「月曜」、月曜日の省略言葉としての「月(げつ)」という言葉。
それらは、青みがかった緑のイメージだ。カレンダー、文章、案内表示等、多分、どこにあっても同じだ。
漢字の「月(つき)」に青みがかった緑を感じるから、それが元なのかもしれない。
同様に例えば、
「疲れる月曜日」、「月曜が楽しみ」、「日、月、火」‥
‥‥‥(考)。
なんだろう。
こちらは、「6」や「六」のように、大した変化がない気がする。

切り口をかえて「月(つき)」を考えてみた。
こちらは「6」や「六」、「月(げつ)」より生きた感じがあり、想像が広がる文字だ。
例えば、「明るい月」。
‥‥‥(考)。
青みがかった緑に金の光が射している気がした。
修飾語の「明るい」が「月」を修飾しているみたいに、金色が青みがかった緑を修飾しているみたいだ、と思った。

「月(つき)」に何らか、糸口を感じたので、引き続き、想像してみた。
すると、「月の写真」という連語にモノクロの月のクレーター写真が思い浮かんだ。意外だった。
私は「月の写真」に対して、そういうイメージを持っているのだ、と思った。
文節化してみると色はある。
「青みがかった緑 _ 白 _ 銀+白」
油彩画の塗り重ね技法のようだ、と思った。絵の表面の色の下に、まったく違ったベースの色が存在する、みたいな。

「月曜日」に特に色味の変化を感じなかったのはなぜだろう。
言葉が理性的だからだろうか。社会的な束縛感が先行して、色なんか浮かべてる余裕がないんだろうか。
ならば、「金曜日」や「日曜日」なら違ったか。
「やっと金曜日。明日は休みだ」、「納品は金曜」、「サマーセール! 金土日の3日間」。
‥‥‥(考)。
やっぱり、色味に変化はあまりない気がする。
一応、「Monday」も想像してみた。柔らかい弾力とオフホワイトを感じる。「月曜日」という言葉とは別物らしいと改めて気付いた。だが、単語以上のことは考えるのをやめてしまった。英語が苦手だからだ。

では、私が知らない文字だったら、どうだろう。
例えば、ハングル文字やアラビア語など。
‥‥‥(考)。
読めなくて意味もわからないものはイメージも湧いてこないようだ。
まあ、そりゃ、そうだろう。
ただ、心なしか、その文字の形に近い漢字、仮名、ひいてはその漢字、仮名のイメージがチラちらつくような、チラつかないような、じれったい感じがあるような。

中国の簡素化された漢字はどうか。
日本の漢字と似ていれば、なんか、しっくりこないな、と思いながらも、日本の漢字と同じようなイメージが湧くみたいだ。
かなり違っていれば、上記の知らない文字と同じだ。

キリル文字は、一見、アルファベットにそっくりな文字がある。しかし、読みが違うらしい。そんな脳が混乱するような文字はどうか。
例えば、キリル文字の「C」は「エス」と読み、英語の子音「S」に相当するそうだ。同様に「Н」は「エヌ」で「N」に、「Р」は「エル」で「R」に相当する。
キリル文字と知らされた上で、「C」を見せられ、「エス」と発音されたらどうだろうか。同様に、
「Н」=「エヌ」
「Р」=「エル」
‥‥‥(考)。
目に入る文字の色が浮かび、同時に聞こえた文字の色が浮かぶ気がする。
ほかに、「Я」というのがあって、「ヤー」と読むらしい。どうしたってアルファベットの「R」を思い出す。そのせいか、「R」と似たイメージが湧く。
因みに「R」はゼリーのような透き通った緑がかった黄なのだが、「ヤー」の音には、弾性の感触と薄黄色のイメージが浮かぶ。弾性ある薄黄色は「Y」や「や」のイメージにある。「や」の音につられて出てくるんだろう。

心理状態によって、イメージへの影響はあるんだろうか。
色が変わるとか、薄くなるとか、明滅するとか、新たなイメージがわくとか。
喜怒哀楽。空腹時・満腹時。寝起き。突然の地震や雷。バンジージャンプの前後。ふと、虹を見つけたら。推し(おし)のサインの文字。成績表の文字。
検証はなかなか手間なので、想像を巡らせるにとどまるが、やっぱり、固定の基本色があり、状況に応じて、色味に変化がある従来パターンかな、と思った。

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ところで、同様の感覚を持つ人は、私のイメージとはずいぶん違うイメージなことが多く、かなり驚かされる。
SNSを検索すると、自身の共感覚について綴っている人が結構、いる。
逆に、その人も私のイメージを聞いたら違和感を抱くんだろうなあ、と思う。

最近、「3」は「ミカン色」に感じる、という人に会った。
その人は、共感覚というものを初めて知った、といった。
「ああ、『1』は◯◯色で、『2』は‥、『3』はミカン色」
と、スラスラと口にした。
その人と一緒にいた人は、
「母が『1』は緑、って言ってた。私は何にも感じない」
と、いった。
「ミカン色」なんて、私には思いがけない色だった。私には「3」は水色に感じる。「1」が緑なのも不思議だ。私は銀色っぽい白に感じる。
こんな話を直接、人としたのは初めてだった。何も感じない、という言葉も新鮮に感じた。

こんなに人それぞれ、イメージが違うなら、共感覚を持つ人たちが同じ風景に各人の色や形をのせたら、ずいぶん違う景色になるんじゃないか。
◯◯さんはやけに黄色い世界ね、とか、△△さんはトゲトゲがあるの?、とか。
そう考えると、共感覚はやっぱり、ものの見え方や感じ方に大なり小なり、影響しているのではないか。

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人によって、色や形のイメージがこんなにも違うのはなぜなんだろう。
「3」に「ミカン色」というイメージは個性的な表現だ。一つのヒントになるような気がした。
「3」に「ミカン色」。
「3」に「水色」。
人によって、密着している要素が違う。
脳内ですでに密着、または関連付いている感じがする。素人の妄想だが。
例えば、幼少期の記憶の定着時、両者が関連付いて記憶されたとか。「3」の記憶の取り出しの際、必ず、「ミカン(色)」が記憶されている部位をかすめて通るとか。実は「ミカン(色)」が取り出しを手伝っているとか。または、いちいち、「ミカン(色)」をどかして取り出してるとか。

思うに、記憶の定着はほかの何かとの抱き合わせが基本的な仕組みに思われる。素人の妄想だが。
よく、記憶は、何かと併せて覚えると記憶しやすい、なんていわれるし、眼で覚える人、書いて覚える人なんて分類する向きもある。
だいたい、モノを覚えようとする時、そのモノを単体で覚えるなんて、難しいだろう。
記憶という行為は、映像なり、音なり、出来事なり、ストーリー、連想など、いろいろな要素を自然と巻き込んでいるはずだ。子どもが成長過程で身に付けていく智恵しかり、自然と刻み込まれる記憶・思い出しかり。その時の周りの何かが一緒に飲み込まれているはずだ。
共感覚は、そんな感じの仕組みと関係してないだろうか。
共感覚の人は、記憶の取り出しの際、一緒に飲み込んだ何かがついつい、一緒に出てきてしまう、みたいなことがおきているのではないだろうか。
ただ、なぜ、とりわけ、数字やアルファベットなどのアウトプットにおいて、とりわけ、色がついてくるのか。
概念的だからだろうか。

因みに、私は、文字だけでなく、建物や橋、扉、階段、イス、お店などに対しても、どこか、色のイメージがある。多分、そのモノに個性が感じられる場合だ。
本当か、と疑われそうだが、そんな気がするのだ。
それこそ連想かもしれないが。
例えば、マッキントッシュという、梯子状の背もたれが特徴のイスは、赤茶色のイメージがある。個体が違う色でもだ。
対象の見た目から感じるのか、名称などから感じるのかは、よく、わからない。

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あと、こういうのは共感覚の仲間といえるんだろうか。
私は数字を見ると、その数字を表すそろばんの珠の形が脳裏に浮かぶ。
アラビア数字(1,2,3,4‥)でも、ローマ数字( Ⅰ , Ⅱ , Ⅲ ‥)でも、漢数字でもだ。車のナンバープレート、番地、値段、時刻、小数点のある数字も、どんな場所にある、どんな表記であれ、見ると同時にその数を示す珠の形が在る。
もしかしたら、実際のそろばんの珠を見ても、珠が示す数(かず)を認識すると同時に、その数を表すそろばんの珠が脳裏に浮かんでいるかもしれない。
個数などを認識する時も珠の形が浮かぶ。
例えば、コロッケが“3つ”、鳥が“4羽”も、“3”や“4”の数を認識すると同時にその形の珠がある。
これは、小学生の時のそろばんの修練によると思う。
だけど、そろばんを習った人、全員に同じ現象がおきているんだろうか。全員が全員じゃない気がするのだ。

そうなると、百人一首を習熟した人はどうなんだろう。
百人一首を習熟した人が、普段も「はな‥」と耳にすると、「わが身世にふるながめせしまに(上句:花の色はうつりにけりないたづらに)」や「ふりゆくものは我が身なりけり(上句:花さそふ嵐の庭の雪ならで)」とか、またはそれらの詠み人が、自動的に脳裏に浮かんでしまうとしたら。
ほかにも、白黒のドットや、それっぽいシミやキズなどを見ると無意識に碁石が浮かんでいるとか。脳内で詰碁が始まるとか。
‥‥‥‥。
ここまでくると、さすがに違うか。
こちらは無条件反射になるのか。
ただ、そろばんの珠については、反射でありつつ、まさに“共(とも)にある感覚”とはいわないのかな、と思うのだが、どうだろう。

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残念ながら、私はある時期から急に“コノ”感覚が鈍くなってきた。浮かぶ像も不鮮明になった。
黒、青など、濃い色はまだ、わりとハッキリ、イメージできるが、白、黄色、水色など、薄い色はだんだん、感じづらくなっている。剥げかかった塗装みたいな感じだ。
多分、年齢的なものだ。そんな面からも自分の衰えを感じられるみたいだ。
そういえば、色や形のイメージは幼少期からずっと、同じだったんだろうか、とふと、思った。正直、覚えていない。そういう記録が残せていたら、面白かったかもしれない。

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抽象絵画のうち、幾らかは、画家がそう、見えている・感じているものを描いている、と聞いたことがある。共感覚によるものもあるのだろう。
もし、画家の共感覚の対応パターンがわかり、画家が見ていたもの、感じていたもの、時代背景などが絵から読み取れたりしたら面白くないか。
先述の5+3=7の話でいうと、赤+白=ピンクから5+3=7を紐解くような。
その画家の創作力のすごさもわかるだろう。
すべての事物・景色に共感覚が働くわけはないだろうから、共感覚ではない部分や絵全体の構成などは、画家の卓越した空想力、画力で創りあげていることになる。
共感覚の部分を絵から外して、純粋な空想力や創作力、構成力など、骨格みたいなものが現れたら、とても興味深い気がする。

それにしても、「みかん色」って、時代がかってはいないか。
私もそんな色がある。例えば「み」には、赤に近いピンク色であると同時に、プラスチックの質感を感じる。それも発色が鈍く、傷がつきやすく、光沢のない、素朴でマットな感じの、いってみれば昭和っぽいプラスチックだ。
その人の感性は時代に乗っかっているんだな、と、こんなところからも感じさせられた。

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