昔、私の高校で起きた“マラソンボイコット事件”の話 その3 卒業式、新聞記事と30数年後の手記

マラソンボイコットから一ト月半。
卒業式。

ゲストがきていた。
前の校長だという。
前の校長が卒業式に呼ばれる?
私は不思議に思った。
今日、その人が来てるということは、定年退職した人なのだろう。

前校長は登壇すると、まずは招待への礼を述べた。早速、懐の深そうな人柄が感じられた。
講話は知的で、かつ、何度か会場を揺らした。
人気アイドル歌手の歌詞を、弁士のような口調で流した。

 ああ、わたしの恋は。
 南の風に乗って走るの。

主旨は思い出せないが、笑顔の記憶になって今でも刻まれている。
校長の話がこんなにも面白いのか、と私は思った。生徒も、こんなにも肩の力を抜いてよいものなのか。
こんな人が前年までうちの校長だったのか、と私はうらやましい気がした。

あれから30数年。

ふいに、あの事件を思い出して、ネットで検索してみた。
思いがけず、生徒会の役員で、臨時生徒集会(ボイコット)の中心にいた〈元生徒〉の手記を見つけた。
騒動の裏側や当時の気持ち、友人の話などが溢れ出るように書かれていた。
退学を迫られたことも赤裸々に描いていた。

〈元生徒〉らはバンドを組み、タバコを吸い、ゲームセンターに行くなど、少々、おおらかだったようだ。
だが、暴力行為はしない。政治色もない。型通りの当時の`不良´などではまったくなかった。むしろ真逆に見えた。

学校が行っていた管理教育の一連の指示・指導に対して、意見などがあった場合は、生徒会と、各クラスから選出した評議委員からなる評議会の2段階審査で審議にかけ、手順を踏んだものを要望として上げていた。
要望だけでなく、具体策も提示していた。例えば、服装・頭髪検査は生徒自身で行う、など。
生徒会担当の先生には度々、要望を伝えたが、のれんに腕押しで、何も変わらなかったという。
「ときには生徒と学校との対話が必要なのではないか」
と感じていた。

マスコミを呼んだのは彼らではないこともわかった。
「あのままだと、あいつら退学になるぞ。この件を表沙汰にするんだ」
と、教師の一人が、〈元生徒〉を心配する仲間の生徒に進言し、仲間の生徒が事前に複数の新聞社に連絡したらしい。
道理で新聞社も絶妙なタイミングで乱入してきたはずだ。

〈元生徒〉はバンドで、管理教育批判の曲を作り、文化祭で発表した。
以前は、学校批判さえも受け流す、自由を重んずる寛容精神がハルイ高校にあった、という。
そういえば、私の薄い記憶の中に文化祭ですごくウケていたバンドがあった。それが彼らだったのかもしれない。

ところで、学校側は、ボイコット騒動を、どう捉えていたんだろうか、と私は思った。
数人の生徒が呼びかけただけで、大きな流れができたのだ。
さしあたって当時の地元新聞 * の記事をたどったが、それがうかがえる記述はなかった。
強いて、拾えるかな、と思ったのは、
「今の生徒は自由を履き違えている」
という校長の言葉だった。
校長は上に続き、
「学校は教育の場。学校行事は首に縄をつけてでもやらせる。必要なものは生徒が好むと好まざるに関わらず食べさせる」
と述べていた。
私はこれに、つくづく時代を感じた。
当時は基本的に、親や目上の人間、指導者には従うのが当然とされていた。
下のいうことに耳を貸さないことはよくあった。
騒動の本質が何なのか、とか、生徒は何を訴えたいのか、とか、そういう思考は多分、ない。
受け止めそのものがない。理屈なし。許さぁ~ん!、って感じ。
上のコメントは、ただ、その感覚でいっていると想像する。

ちなみに教育委員も、現代の感覚からすると、なかなかなものだ。
「指導されるものが教育活動そのものに口をはさむのはおかしい。
一部の生徒が勝手に学校の公の放送施設を使って扇動したのも、もってのほか。学校は断固とした態度で臨むべきだ」
一部の生徒が‥、の部分は、棚にあげるとして。

では、わずか4日で学校側と生徒側が折り合った様子は、どんなものだったのか。

地元新聞によると、まず、生徒側は主に次の3点で、ある程度、納得したらしい。
耐寒マラソンに対する意見の一つである、放課後に影響させないこと、が受け入れられたこと。
学校側が、`今後も´話し合いに応じてくれると言ったこと。
受験中の3年生が受験で不利になる畏れは在校生としても避けたいこと。

これに対し、学校側は、相手を受け入れているようにはやはり思えない。
「耐寒マラソンは教育の一環であり、生徒の都合を聞いて決めるものではない。毅然と対応する。」
生徒側と話し合うのは、「事態の収拾のため」という構えだった。

結局、収束に持ち込めたポイントは、進学担当の教師の説明が端的だと思う。
「互いの良識がかみあった」
別の教師も、「ボイコット以後、無軌道に走ることなく、ハルイ高生らしい対応の仕方だった」と新聞取材で述べていた。
─ハルイ高生らしい対応
そうかもしれない。誰もが俯瞰した眼を持ち合わせて冷静だったと思う。
あとは、熱量が高かった生徒が、実際はそんなに多くなかったからか、と想像する。

新聞記者の人が、うまくすくい上げているな、と思ったコメントもある。
生徒会の役員のうち、騒動には加わらなかったらしい生徒のコメントだ。

「早く収拾したいのは生徒も学校側も同じことだったが、生徒側の意見はあくまでも今後の話し合いの場を勝ち取ることが重要だった。
生徒たちは文字通り“名誉”をかけたと思う。
学校側でもよりよく問題を解決しようと生徒の考えを十分聞いてくれた。」

「勝ち取る」とか「名誉」とか、今の時代からするとちょっと言葉が固いが、おおむね、次のようなことを語っているんだと思う。
ハルイ高生の誇り―自主自立の精神や伝統の気風が、管理教育によって均一・従順なものに塗り変えられないために、`話し合い´の場を強く要望した。

`話し合い´の場は、管理教育下では、掴み取とらなければ得られない。下の者は上部に従うもので、決め事には当然、首をつっこめないからだ。
社会がそういう風潮だったのだ。それが教育に反映されている。
ちなみに、当時、子供の数が多く、管理しやすいように、という見方もあるが結局、同様だ。一人一人、意見なんか聞いていられない。
争いではなく、`話し合い´であるところがまた、ハルイ高生の誇りだ。

うちの高校、こんなにすごかったの?と改めて私は思った。

「名誉」という言葉に引用符(“ ”)を付け、コメントを記事のほぼ、締めくくりに盛り込んだ記者さん。騒動は単純な気持ちで起きたのではない、ということと、管理教育や社会の風潮など、広い意味で何かを発信したかったのかもしれない、と感じた。

ふと、気がついた。
卒業式に前校長を招いた理由。

生徒・関係者が集まる卒業式という格好の場で、ボイコット騒ぎの残り火が再燃しないかを懸念して、予防措置を講じたんじゃないだろうか。
だからその対策の一つとして、よき高校生活を送らせてくれた前校長を招き、決起しづらくさせたのではないだろうか。
前校長も、血の気の多いヤツが紛れているかもしれないと警戒して、笑いで萎えさせよう、と思ったのでは。
まあ‥、もしかしたらだが。

それにしても、自主・自立、自由な空気の学校で過ごしてみたかったな、と、当時、1年生だった私は思う。
結局、学力別クラス編成、服装検査、紙パック牛乳だけの自販機など、すべてその後も続いた。

同窓会で再会したリッコに、元生徒の手記のことを話してみた。
私も読みたい、とリッコがいった。
で、リッコとは今のところ、それきりだ。リッコは手記を読んだだろうか。
他にもあの手記を読んだ卒業生がいるに違いない。どう感じただろう。
当時の職員室の様子を知る人や、取材した記者たちは、現在なら、あの出来事をどう、捉えるだろうか。当時の気持ちも含めて聞いてみたい気がする。

*中日新聞 1981年2月3~8日付け を参考にしました。

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