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バンドの話し

うーむ。早番なのに眠れない。きっと言っておきたい事があるのだろう。全力を出さないと倒れて眠れない。
19歳の時に高校の友人から卒業後「ちょっと会おうぜ。」みたいな事を言われて革靴で行ったら、サッカーやることになった。
そのあと「ドラム叩いてくれ。」と言われ、浪人生にもかかわらずそこから友人の家にある常滑焼で有名な常滑に入り浸るようになった。
そのドラムというのがギターのハードケースとお菓子の缶だった。ハードケースがバスドラでお菓子の缶がスネア。

足でバスドラを踏む事を知ったのは大学のサークル入ってからだった。
そこで半ば軟禁状態で狂った曲を沢山作りました。毎回後半は「帰らせろ!」とか叫んだり歌詞が思いつかないので新聞の記事を歌詞にするとかやってたような気がする。

その後はれて大学に合格しサークルでは主にコピーバンドをやっていた。いい先輩や仲間に出会えて良かったと今でも思っているし、今でも時々仲間と会っては近況報告したり飲めない酒を飲んだりしています。

大学のサークルと同時進行で高校の仲間たちとも会っていてたまーにレコーディングとかしていた。
今から20年以上前の話し。
その頃常滑市にはセントレア空港もなくて夜中の海辺を歩いたり、鶴舞公園というところでUFOを呼んだりしていた。また、どっかの中華料理屋で演奏したり友人の大学の学祭に呼ばれたりしていた。その頃会ったのがのちのギター担当だった。
そして出来たバンドが「レモンフーリガン」だった。
             その2に続く

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