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その名と向き合う

ピアノの美しい和音のはじまりは、水のなかで透明の泡が浮き上がっていくような様子を連想させる。その音楽が映画『千と千尋の神隠し』の曲だとわかると、リンクに登場した白の衣装を着た人はハクだと想像されただろう。

ハクは『千と千尋の神隠し』の登場人物。本当の名前を忘れて魔女の湯婆婆に仕える少年で、神隠しの世界に迷い込んできた少女の千尋を助ける龍だ。千尋によって本当の名前を思い出す。その名は「ニギハヤミコハクヌシ」。千尋は川で溺れかけたときの出来事を思い出し、自分を助けてくれた琥珀川の主の名前をハクに伝える。すると、ハクは本来の自分を取り戻すことができたという神話のようなお話だ。

「あの夏へ」の静かな調べは、何かを失って戸惑うこと、取り戻して蘇ること、その心の揺らぎを伝えている。幻想的な風景を聞く人の感覚に浮かび上がらせる久石譲の音楽は、氷の上のしんとした空間に響き渡り、映画の場面を観客に思い出させただろう。

全身が白の衣装には腰から柔らかな長布が何本か飾りつけられ、それらはスピンによって風車のように回転し、演技を大きくして見せた。柔らかな手の動きとともに繰り出されるスピンは、ブルーライトで照らされた舞台にいくつも残像として残った。そんな印象的な円形を描きながら、音楽の抑揚に表現を合わせて、空を飛ぶ龍でもあったハクが演じられていただろう。

羽生結弦の一夜限りの単独アイスショー「GIFT」は、その半生とこれからを表現した一つの物語で、本人のナレーションによって孤独に悩んできた心情が多く語られた。3番目の物語だった《あの夏へ》は、羽生結弦という存在の重さ、名前に感じる重荷と向き合ってきたものを表現していたのかもしれない。
東京ドームにアイスリンクを登場させるという初の試み。音楽プロデューサーの武部聡志と演出家のMIKIKOが加わり、壮観な眺めの会場に隙のない工夫の行き届いた演出、はじめて目にする映像、光のアート、音楽が主演とコラボレーションした。
 
■GIFT ICE STORY 2023 
2023年2月26日 東京ドーム
羽生結弦 《あの夏へ》
音楽: 久石譲作曲「あの夏へ」、映画『千と千尋の神隠し』より(2001年)
振付:―

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『千と千尋の神隠し』2001年に公開されたアニメーション映画、原作・脚本・監督は宮崎駿


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