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3月:学期末に感じていること

 怒涛の3学期が終了した。授業の終わり、通知表、要録、六送会、卒業式、離任式など、様々なこととの戦いであった。一番感じていることは、虚無である。分からないなりに思考をしながら、ひたすら身体を動かし続けた。感情の変化は、たくさんあった。ありすぎて頭が追い付かない。いちいち今自分は、こんな感情であると認識している暇がなかった。私が自分の虚無を一番感じた出来事を挙げる。それは、離任式の日のことである。

 私は臨時の講師なので、当然、離任であった。離任式の間もいろいろな感情があった。例えば、30年くらい教師をしているベテランが離任の挨拶で涙を流していて、ベテランでも離任は辛く悲しいものなんだなと思ったり、子どもたちが離任式の雰囲気で涙ぐんでいて前日までの様子との切り替えや感受性がすごいなと感じたりした。私は、感動もしたが、挨拶の緊張でそれどころではなかった。しかも、ノープランで挨拶をしたので、他の先生方の仕込み具合に驚いていた。そうした流れがあり、最後は、教室で自分の学級の子どもたちとのお別れである。その時に、私は、虚無を感じた。

 女子を中心に半分くらいの子が泣いていた。朝の段階で、すでに泣いていたらしい。男子もストレートにお世話になりました、いなくならないでくださいと声をかけてくれた。また、一部の男子は、少しねじ曲がって新しい人がくるんで大丈夫ですよ、先生新しい家教えてくださいなどと親しみを込めた言葉をくれた。そういった子どもたちの素敵な姿を価値づけ(それ相応の返答、挨拶、表情、雰囲気作り)するのが教師の仕事であると思う。しかし、私は、それができなかったと感じている。価値づけよりも先に「子どもたちの素敵な姿は自分に向けられたものではない、自分にそのような価値はない」という考えが来てしまった。それを虚無というのは違う気がする。でも、色々な仕事、思いが重なり、感情の変化と思考が一致せず、自分の根底にある考えが表れたのだと思う。

 この記事を書いていて思ったのだが、これは虚無ではない。感情が追い付かず、何も感じないというのが虚無である。実際、離任式の日、当時は虚無だと思っていた。でも、その日を今振り返ると、上記のことだと思う。

 要するに、自分は、自己評価が低いのが強みであり欠点でもある、ということである。自己評価が低いから、能力のない自分に仕事を任せる上司が悪いと開き直って仕事ができるというメンタル面での強みがある。一方で、今回の場合のように、子どもたちの最大限の素敵な姿を価値づけできない、むしろ否定している、という最低の弱みになる。新卒1年目の最後に、最大の後悔をした。

 本当に子どもたちは、素敵な子どもたちであった。この1年間たくさん苦労をかけた。それでも、私についてきてくれたし、何度も助けてくれた。でも、その子どもたちに、私は、何も返してあげることができていないのではないだろうか。私は、1年間を通して、子どもたちに何を教えたり、学びを生み出したりすることができたのだろうか。この問いと、後悔を記憶に刻み込み、この講師経験を今後の人生の糧にしたい。また、1年間一緒に過ごしたこの子どもたちの姿を思い出し、自分に向けられた素敵な行動への思いを一生かけて返していきたいと思った。

 4月から正規の教員になり、新たな学校での生活が始まる。4月は、1年間の学級を左右する最も重要な月であるらしい。もっとプロ意識をもって、今年度よりも様々な面で進歩したい。講師経験を通して、ほんとうに自分に実力をつけたいと思った。

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