囲碁史記 第84回 金玉均と秀栄(前編)
壬午事変と日本への亡命
村瀬秀甫と本因坊秀栄の和解など、日本の囲碁界とも大きく関わることとなる李氏朝鮮後期の政治家・金玉均(キム・オッキュン)について紹介する。
金玉均は、一八五一年に忠清南道公州に生まれている。
まずは、金玉均の時代の朝鮮半島情勢について紹介する。
第ニ六代高宗は、先帝の養子となり一八六三年に十一歳で即位するが、政治の実権は摂政となった実父の大院君がを握っていた。清の属国であった李氏朝鮮は、清がアヘン戦争で敗北した後、西洋諸国の脅威にさらされていたが、大院君は徹底した鎖国政策をとり、これに対応していた。西郷隆盛が下野するきっかけとなった征韓論争も、鎖国政策の影響で明治新政府を江戸幕府に代わる日本の正式な政府と認めず国交を拒否したことが一因となっている。
一八七三年になると、高宗の妻である閔妃の一族が大院君を追放し政治の実権を握るようになる。閔妃一派は開国へと政策を大きく転換し、日本とも軍の近代化のため軍事顧問を迎えるなど関係を深めていった。
この時期、科挙文科に首席で合格し官界に入っていた金玉均は、王命により明治十五年(一八八二)二月から七月まで日本に遊学し、福沢諭吉、後藤象二郎、榎本武揚、副島種臣、渡辺洪基、井上馨らと交友している。
ところが、金玉均が帰国の途に就いた頃、朝鮮では「壬午事変」と称される、大院君を中心とする守旧派が起こした反乱により日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害される事件が勃発している。反乱は日本軍の朝鮮侵攻を懸念する清の介入で鎮圧され、大院君は清へ連行されるという形で終結。日本は済物浦条約により賠償金の他、居留地の拡大や、再発防止のために軍隊駐留権を認めさせている。このとき金玉均は条約に基く謝罪のための使節団に随行して再来日。使節団の帰国後もしばらく日本へ留まり、日本や外国の諸事情について更に詳しく調べている。
三度目のら二日は一八八三年六月のことで、目的は日本からの三百万円借款交渉のためであったが、これは不成功に終っている。
金玉均は朝鮮が発展していくためには、日本の明治維新に倣い近代化していく必要があり、そのためには清との属国関係を解消し、真に独立する必要があると考えていた。しかし、反乱から復権を果たした閔妃一派は、清との関係を深めていき、それまでの親日開明政策から開明に消極的な親清政策へと大きく転換していった。守旧派と金玉均ら開明派の政治的対立は次第に先鋭化していき、粛正の危機にさらされた開明派は日本と連携し、明治十七年に「甲申政変」と呼ばれるクーデターを起こすことになる。しかし、開明派が樹立した新政府は清国軍の介入により僅か三日間で崩壊。日本公使館は焼き払われ多くの日本人が殺害され、金玉均らは日本へと亡命していった。
亡命初期の動向
日本政府は、当初金玉均らの亡命を秘匿し、朝鮮からの身柄引渡し要求に対しても亡命事実を認めず、また亡命しているとしても国際法上、政治亡命した人物の引渡しは出来ないと返答している。それまで、何度も来日し要人とも交友している金玉均を引き渡せば、その批判が政府に向かうという国内事情もあったのだろう。
金玉均は亡命中には岩田周作と名乗って活動している。はじめ福沢諭吉方に居を構え、次いで浅草の本願寺、横浜と移っている。明治十八年の四月には関西方面を巡り、神戸、有馬、大阪等を訪れるなど、その動向が新聞で確認されている。
ただ、多くの支援者がいたが、その中の一人である旧自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮侵攻計画(大阪事件)を画策し逮捕されると、玉均の関与が取りざたされ、政府はその動向に神経をとがらせていく。明治二十七年(一八九四)には、李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因で日清戦争が勃発するが、この時点では日本政府は朝鮮とその背後にいる清と事を構えるつもりはなかったといえる。
秀栄との親交
金玉均を支援する後藤象二郎、犬養毅、頭山満ら、多くの要人には囲碁の愛好家が多く、囲碁界の有力支援者でもあった。そんな関係から金玉均は支援者の紹介で方円社に出入りし、村瀬秀甫から囲碁を学んでいったと言われている。横浜滞在時には方円社横浜分社にも訪れていたという記録もある。
また、後藤象二郎の紹介で本因坊秀栄とも出会っているが、歳も近い二人は意気投合して親交を深めていくこととなる。
祖国の独立を志しながら夢破れ亡命してきた金玉均と、囲碁界の中心であった本因坊家を再び盛り立てようと当主になりながら、思うようにいかない秀栄は、共に困難な状況に置かれているという状況から、相通じるものがあったのかもしれない。
金玉均と秀栄の親交の深さが分かる資料が存在している。それも囲碁界の記録ではなく、外務省の外交資料館と国会図書館が所蔵の『韓国亡命者金玉均ノ動静関係雑件』の中にである。
この資料により、亡命後の金玉均は政府より絶えず尾行され、その言動は逐一、地元警察を通じ内務大臣に報告されていたことが判明している。しかも、本人だけでなく、彼と関わりを持つ、すべての人々も監視対象となっていた。秀栄もその一人である。
明治十九年二月八日付の警視副総監から外務官房長への報告に、次のような記述がある。
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