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囲碁史記 第98回 明治中後期の囲碁界の支援者


 明治以降、幕府の庇護を失い苦境に立たされた棋士たちを支えてきたのは政財界の囲碁愛好家たちであった。
 今回は、本因坊秀栄が四象会を立ち上げ隆盛を極めていった明治中後期の囲碁界の支援者を紹介する。

犬養毅

犬養毅

 囲碁の愛好家として知られる第二十九代内閣総理大臣犬養毅は、囲碁界の有力な支援者として色々な場面で登場している。

【犬養家は桃太郎の犬の子孫?】

 犬養毅は安政二年(一八五五)、 備中国庭瀬村字川入(岡山市北区川入)の大庄屋、犬飼源左衛門の次男として生まれる。後に犬養と改姓、号をとって犬養木堂と称されることもある。
 犬養家は吉備国を平定した吉備津彦命の家臣犬飼健命の子孫と伝えられている。吉備津彦命は桃太郎のモデルと言われ、犬養毅は犬の子孫といわれている。ちなみに犬飼家のほかに、鳥飼家、猿飼家もあったそうだ。
 明治九年(一八七六)に慶應義塾へ入学、在学中の明治十三年(一八八〇)に勃発した西南戦争では、郵便報知新聞の記者として従軍し、現地からの記事が話題となった。

【引退しても当選? 政治家としての犬養】

 その後、明治一六年(1882)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党すると、明治二十三年(一八九〇)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後四十二年間で十八回連続当選を果たしている。
 明治三十一年(一八九八)、第一次大隈内閣では辞任した尾崎の後任として文部大臣に初入閣。野党となった後は、大正二年(一九一三)の第一次護憲運動で第三次桂内閣を総辞職に追い込むなどし、「憲政の神様」と称されるようになるが、この政争で当時所属した立憲国民党が桂首相の切り崩し工作に遭い、以後小政党として辛酸を舐めることとなる。
 犬養は右翼の巨頭頭山満とともに、世界的なアジア主義者としても知られた存在で、日本へ亡命中の孫文を保護するなどしている。囲碁界と関わり深い金玉均も犬養の支援を受けている。

加藤高明内閣(大正十三年~十五年)

 その後、第二次山本内閣(一九二三)、加藤高明内閣(一九二四)で逓信大臣を務めるが、少数政党を率いる事に限界を感じ、自ら率いる革新倶楽部を立憲政友会へ吸収させ政界引退する。ところが辞職に伴う補選で支持者たちが勝手に犬養の立候補を届け出て再選してしまったという。

【総理大臣就任】

 昭和四年(一九二九)、立憲政友会総裁の田中義一が亡くなり、後継者を巡る党内抗争を収めるため、重鎮の犬養が総裁に選ばれる。
 その後、当時の若槻内閣が、世界恐慌による経済危機や昭和六年(一九三一)に発生した満州事変への対応で行き詰まって解散し、慣例により野党大一党であった立憲政友会が政権を引き継ぐことになり、犬養毅が二十九代内閣総理大臣へ就任する。

【五・一五事件】

 犬養は経済対策のため、元首相の高橋是清を蔵相に起用して成果を上げていくが、満州事変について独自の中国とのパイプを通じ交渉を始め、このことが満州国承認を求める軍部との対立を生むこととなり、昭和七年(一九三二)五月十五日に陸軍青年将校が中心に起こした反乱「五・一五事件」により暗殺される。暗殺時に犯人へ「話せば分かる」と語ったといわれるが、これは「やめろ」という意味ではなくて、何が正しいのか理解せずに命じられるまま犯行に及んだ犯人を、説明してやるからここへ連れてこいという意味だったといわれている。

犬養毅の墓(青山霊園)

 「五・一五事件」の犯人達は軍法会議により比較的軽い罪で済まされ、報復を恐れた政治家やマスコミが軍部を批判することを控えたため、日本はこの後、軍閥政治が台頭していくこととなる。
 犬養毅の墓は青山霊園にあるが、向かい側には日本棋院初代総裁の牧野伸顕の墓がある。

【犬養毅と囲碁】

 犬養毅は多趣味で、書道が得意故に筆や墨、硯を収集し、刀剣を愛蔵し鑑定眼も優れていたという。
 囲碁の愛好家としても広く知られ、明治三十四年刊行の「明治六十大臣逸事奇談」には、初段に三目位と記されている。
 犬養の愛蔵の碁盤は二百円したといわれている。現在の価値では約四百万円になるそうだ。
 よく客が来て自慢の碁盤での対局を望まれたが、「うん、あれは君らのような笊碁と打つのじゃない。初段以上の相手なら」といって断ったという。

犬養が東郷元帥へ贈った碁盤(伊東東郷記念館)
箱の裏書

碁盤といえば、静岡県伊東市の伊東温泉にある「伊東東郷記念館」は、東郷平八郎元帥が、夫人の療養のため昭和四年に建てた別荘であるが、そこに犬養毅が東郷元帥へ贈った碁盤が展示されている。囲碁を通じて様々な人々と関係を深めていたことが分かる。
 犬養が特に目をかけていたのが本因坊秀栄である。家元も参加して明治十二年に方円社が発会したときにも賛成者の一人にも名を連ねている。
 方円社と本因坊家の対立を憂慮し、後藤象二郎が仲裁に乗り出したことが知られているが、実際に両者の調停に動いたのは後藤の意向を受けた犬養毅や渋沢栄一らであったといわれている。
 高田商会の高田たみ子の支援で秀栄が「四象会」を立ち上げ、方円社からも多くの棋士が参加するようになるが、犬養も会の有力支援者であり、以前も紹介したが、「四象会」の名付け親は犬養毅である。
 別の機会に紹介するが、秀栄が高田たみ子と断絶し「四象会」が解散となった際に、生活に困窮者する秀栄を支援するために動いたのも犬養であった。
 後の時代であるが、中国の囲碁の天才少年、呉清源が昭和三年(一九二八)に来日した際にも犬養毅は助力している。相談を受けた際に、冗談半分に「そんな大天才が来て、日本の碁打ちがみんな負かされたらどうする」と尋ねたと言われているが、犬養の心配は的中し、呉清源は後に「昭和の棋聖」と称されるようになる。
 非業の死を遂げた犬養毅に対し、日本棋院は後に三段を追贈している。

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