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囲碁史記 第40回 素人碁打ちの活躍


 素人碁打ち・地方碁打ちについて見ていこうと思う。江戸時代中期を中心に素人碁打ちの棋譜が非常に多く遺されている。家元の指導碁や置き碁の勝負のようなものはこれまでも見られたが、素人同士、賭碁打ちの棋譜が実に多く興味深い。

小松快禅

 まずは素人碁打ちの中でもトップクラスといわれる小松快禅(快全とも書く)から見ていこう。
 快禅は加賀国能美郡小松に生まれ、その後江戸の増上寺の僧となる。『当世武野俗談』(一七五七年)には、増上寺の若僧快全が「碁の妙を得たる人」として、当時の賭け碁打ちの中の第一に記されている。棋譜は江戸中期の素人打碁集『当流碁経類聚』『素人名手碁経拾遺』『当流続撰碁経』に多く収められている。

囲碁角手集

 快禅は十世本因坊烈元が跡目時代に先で十番碁を打分けている。大胆な捨て石から全局を圧倒する外勢を築く「快禅の大塗り」(写本「囲碁角手集」より)と呼ばれるハメ手で有名である。
 この快禅が幽霊と打った逸話と棋譜が『爛柯堂棋話』に載っている。
 
巻九「快禅、幽霊と囲碁の事」
上州厩橋(後の前橋)の処士に、近藤左司馬なる者ありけり。囲碁の道篤く執心なり。
その頃、江戸三縁山増上寺会下の僧に、生国加賀の産にて快禅と云う者、稟性碁を善くし、その名一時に高く、諸州を遊歴するに更に敵手なく、世人、本因坊のほかには独り快禅あるを知るのみ。
ある時、左司馬、快禅と手合せありけるに、左司馬二ツ置いて対手、二局とも左司馬勝ちたり。自分にも手柄に思い、傍観の諸人も感嘆賞美しける。これより世評よろしく、珍重せられて、御旗本衆へ招かれ、因碩(五世・春碩、一七七二年没)らとも手合せ望まれ、甚だ歓びしとなり。
(左司馬は快禅に先の手合を望んだが、受けてもらえなかったこと、中略)
年を経て左司馬、快禅が居処に来り、旧時の物語りに及び、左司馬儀、容を改め申し出でけるは、「我が囲碁執念の儀は、貴僧かねて知らるる事なり。往年、人を以ても、先の碁の手合わせを一局願いたく、しばしば申し入れ候えども許し給わず。心強くも情なき次第、恨めしくも存じ候。哀れ今生の願いに候、只一局、手合わせ頼み入る」と云いて低頭平身の様子、顔色も青醒めて常にかわり、深く思い入りたる体なる故、快禅も哀れに成りて、「さほど迄に頼まれ候執心に愛でて、望みに任せ手合わせいたすべし」とて、対局に及びける。
快禅が心中に軽視してありけるが、石立より半ばに至り、甚だ気骨ありて、左司馬が昔日の碁品に相似ず。快禅も驚き怪しみ、思いを凝らし打ちけるに、左司馬、精神ますます加わりて、勝敗分明ならざるなり。
ここに於いて快禅、苦辛工夫、大方ならず。以前二ツの碁を囲みし時、朝巳の刻より始めて、申の刻或いは遅くも燭を用いずして畢る。しかるに今度の碁は、先なれば、半日にも足らず畢るべしと思いの外、夜の丑満過ぎに至りて、ようやくに打ち畢りぬ。その碁は、僅かに快禅が四目勝ちなり。「さて上達の様子、感じ入りぬ」と誉めければ、左司馬も甚だ歓び、「今生の願い遂げぬれば、妄念残ることなし」と、厚く礼を述べて立ちぬ。「厠へ行きしなるべし」と思い居たるに、暫し時移りても座に帰らず。「深更の事なれば、暇をも告げず、よもや帰りもせまじ」と思いつつ尋ねぬれども、影も見ねば、怪しみながら打ち置きぬ。(左司馬はこれよりも以前に既に死んでいたという、後略)

 
 宝暦の頃、上州厩橋の近藤左司馬なる碁好きの処子があり、快禅に二子で二局勝った。これが評判となって旗本衆や井上春碩因碩にも招かれ、大いに喜んだ左司馬は、次いで快禅に先での対局を願ったが、先の棋力にあらずと断られ帰郷する。年を経て快禅の居に左司馬が訪ねて来て熱心に対局を頼むので先で打ったが、左司馬は非常によく打って、深夜までかかってかろうじて快禅の四目勝ちとなる。左司馬は礼を述べて席を立つと、そのまま戻ってこなかったという。その後厩橋の者が訪ねて来た際にこの話をしたところ、左司馬は長く患った末に死去しており、その対局の日が命日であったという。

『邯鄲亦寝夢』

 『邯鄲亦寝夢かんたんまたねのゆめ』は宝暦八年(一七五八)、江戸本船町の寿玉堂升屋忠兵衛(平井直興)による囲碁の戯作書。俗手直鑑では諸国の初段以上の碁打一一七七人の名前をあげている。 

邯鄲亦寝夢に挙げられた碁打ちの名

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