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囲碁史記 第96回 四象会と高田たみ子


 本因坊秀栄が立ち上げた研究会「囲碁奨励会」が頓挫した話しはすでに述べたとおりだが、その後秀栄は高段者による研究会「四象会」を立ち上げ、人生の中で絶頂期を迎えている。

 秀栄の人生を変えたのは、高田商会の社長夫人たみ子との出会いである。
 高田商会は高田慎蔵が興した新興財閥である。慎蔵はかなりの囲碁愛好家であったといわれるが、それに輪をかけて囲碁好きだったのが妻のたみ子である。

高田たみ子の支援

高田慎蔵

高田慎蔵

 高田商会は明治十四年(一八八一)に設立された貿易会社である。
 創業者の高田慎蔵は、旧幕府佐渡奉行支配地役人組頭天野孫三郎の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)で生まれ、父の同僚高田六郎の養子となる。
 慶応元年(一八六五)、十四歳で佐渡奉行所に出仕し公事方秘書役などを務め、明治二年(一八六九)には佐渡夷港開港場運上所下調役通弁見習として英語を学んでいる。
 明治三年に上京した慎蔵は、英語力を活かし築地居留地にあった兵器商社「アーレンス商会」に通弁兼事務官として勤務。その後、国の方針で政府の輸入品調達は外国商館ではなく国内の貿易会社に限定されることとなったため、慎蔵が会社を引き継ぎ高田商会が設立された。
 欧米より機械・船舶・武器・軍需品などを輸入する高田商会は、富国強兵政策の波に乗り、日清・日露戦争で巨額の利益を上げていく。
 また、明治三十年(一八九七)には建設された八幡製鉄所に設備を納入するなど、軍需品以外でも着実に実績を伸ばしていき、その他に鉱山事業を経営するなど「高田商会」は総合商社化していき財閥が形成されていった。
 大正三年(一九一四)に発覚した、当時の山本内閣を総辞職に追い込んだ疑獄事件「シーメンス事件」は、日本海軍の軍艦建造に絡み、ドイツのシーメンス社や、イギリスのヴィッカース社が軍関係者へ賄賂を贈ったという事件であるが、ヴィッカース社の代理店である「三井物産」が犯罪に手を染めた背景には、ライバルのアームストロング・ホイットワース社代理店である高田商会が受注するのを阻止する目的があったとも言われている。
 慎蔵はたみ子の間に七男五女の子をもうけている。(多くが夭折)
 実子以外にも高田商会の前身、ベア商会の経営者・ミカエル ベアと日本人の妻の間に生まれた照子をミカエルが本国へ帰る際に引き取り養女としている。照子は男爵原田一道の子原田豊吉と結婚。その娘は有島武郎の弟で画家の有島生馬に嫁いでいる。
 慎蔵は大正元年に会社を娘婿の高田釜吉に譲り顧問となっている。そして大正六年、六十六歳の時に大磯の別荘へ移り、美術品収集などをして暮らしたと伝えられている。
 ちなみに、高田家は高田釜吉の外孫である祐一が、後継ぎのいなかった釜吉の養子となり跡を継いでいるが、その祐一の娘が、バイオリニストの葉加瀬太郎の妻で、タレントの高田万由子である。

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