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囲碁史記 第100回 中川亀三郎の逝去と巌埼の社長就任


小林逝去後の方円社

 明治二十六年に方円社を設立以来支えてきた小林鉄次郎が急逝すると、方円社はたちまち苦境に立たされ、小林が生前尽力して建てた錦町の会館も手放すこととなった。
 当時の社長、中川亀三郎は、明治初期には若手囲碁棋士による研究会「六人会」を立ち上げ、その後、村瀬秀甫を招聘して「方円社」を設立するなど、囲碁界改革の中心的役割を果たしてきたが、もともと自分が前面に出て活動することは好まず、秀甫が亡くなり社長となってからは、方円社の経営もほとんど小林鉄次郎に任せきりであった。それだけに、方円社の小林が亡くなった影響ははかり知れないものであった。
 この時期の方円社の動きとして、「丈和の五十年追福会」が挙げられる。
 明治二十九年五月二十四日、中村楼において、亀三郎の父である十二世本因坊丈和の没後五十年を記念して追善碁会が開催された。
 丈和は江戸時代最後の名人碁所であり、道策と並び前聖後聖と並称された人物である。本来であれば秀栄が取り仕切って盛大に行っても良いのだろうが、実子である亀三郎が行うことになったのだろう。
 しかし、この会での棋譜は、「囲棋新報」に三局しか掲載されていない。本因坊秀栄(七段)と石井千治(五段)、杉山博雄(三段)と井上保申(三段)、林文子(三段)と都筑米子の対局である。
 この追福会には安井算英や土屋秀元など、多くの棋士も参加していたと思われるが、三局しか打たれなかったのは、没後五十年も経っているので、あまり大袈裟にしたくなかったということかもしれないが、方円社にそれだけの余裕が無かったということも考えられる。

末広町への移転

 前にも紹介したが、中川は方円社が発会した頃は郊外の今戸にあった。中川の性格からして、方円社が軌道に乗れば、のんびり暮らすつもりだったのかもしれない。
 しかし秀甫が亡くなると、中川は浅草花川戸に居を移している。
 社長としての活動が増えるため、都心に近い場所で暮らすこととしたのだろう。
 表神保町の会館を退去した際には、兼房町にある小林の自宅を仮事務所としたが、手狭なため塾生の一部はこちらで面倒を見ていた。
 そして、小林が亡くなった時期には、さらに都心に近い末広町へ居を移していた。現在の外神田である。
 錦町の会館を退去した方円社は、この末広町の家を事務所としたが、それは普通の民家に看板を付けただけのものであったという。

巌埼健造の社長就任

巌埼健造

 明治三十二年一月、六十三歳の中川亀三郎は社長を退任し、副社長の巌埼健造が三代目社長に就任する。
 この時の経緯について、次のような話が残されている。
 中川は当初、塾頭を務めた石井千治を後継者に指名したかったが、外様とは言え、重鎮の巌埼健造を無視するわけにはいかず、高田たみ子に相談したという。たみ子は秀栄の支援者として有名だが、その他の碁打ちとも関りが深かく、中でも特に可愛がっていたのが石井であった。石井は林文子との婚約を断念した後、たみ子の世話で高田家の親戚の女性と結婚している。
 そういう関係もあり、たみ子としても石井が社長になることは賛成であったが、やはり、儀礼上一応巌埼を推してみてはどうかとアドバイスしている。巌埼は官僚として囲碁界を離れていた期間が長く、きっと辞退して社長を石井に譲り、自分はその補佐役を勤めるだろう、という希望的観測があったとも言われている。
 しかし、それは甘い考えであった。明治三十一年の暮に、中川が巌埼を自宅に招いて話し合いが行われたが、当時のことを中川の内弟子として同席した雁金準一(二十歳、初段)が語っている。
 話し合いで中川は、巌埼が社長就任を辞退するだろうと考えていたが、巌埼は即答で社長就任を受託してしまったという。
 中川は、最初に自分の引退を明かにしたうえで、「後任に就ては石井も未だ若いので」と意中の人物が石井であることを匂わせたうえで話を進めたが、巌埼は「今迄は長い間、誠に御苦労様でした。今後は及ばずながら自分が御引受け致し尽力致しましょう」と中川に二の句をつがせず、即答で社長就任を引き受けてしまったという。
 この時、雁金は巌埼にも「今後、方円社は自分の宅に移ることになるから、君もわしの家に来てもらいたい」と言われたそうだが、雁金は巌埼の内弟子である岩佐銈(後の方円社六代目社長)から、巌埼は手腕はあるが強引で、特に内弟子に対しては厳しいということを聞いていたので困ってしまったという。雁金が高田たみ子に相談したところ、「もともと、塾生とはいえ中川先生の直弟子なのだから、中川先生の御手伝いをするのが当然です。私がそう言っていると言って断わりなさい」と助言をもらい、嫌味を言われたものの中川宅に残ることが出来たという。
 当時、巌埼宅は下谷徒町(現在の台東区東上野)、俗に御徒町とも言われる場所にあり、これより方円社は御徒町へ移転することになり、明治三十二年一月発行の『囲棋新報』第二二六号でその旨が報じられている。

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