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囲碁史記 第125回 棋正社と正力松太郎




 明治以降、長きに渡り分裂状態であった日本の囲碁界は、関係者の努力により大正十三年七月十七日、日本棋院創立して統一を果たす。
 しかし、大同団結の時代は長くは続かず、大正十三年十月八日、突如として雁金準一、鈴木為次郎、高部道平、加藤信の各六段、及び小野田五段の棋院脱退事件が起きている。
 事件の直接の原因は、五棋士の報知新聞碁における対局問題であった。
 同十月二日の報知新聞には、次のように掲載されている。

 分裂してゐた碁界が日本棋院に統一されてからは、一般に期待された基譜が、新聞に報導される筈であるが、棋院から各新聞社の受取る碁譜は、抽籤によるから、この手合の譜が欲しいと思っても、さういかない不便を考へて、本社は雁金、鈴木、高部、加藤六段と、小野田五段の、世間の最も期待する五名の棋士を選んで、報知の選手たることを依頼し、従来の先手とか後手とかの歴史を一切投げすてゝ、凡て平手で對戦し、争覇戦を行ふことに決定した。報知選手の件に對して、日本棋院から苦情も出たが、選手は断然之れを蹴って、報知讀者の爲めに對戰することゝなり、昨一日、本社五階に於いてその初手合が行はれた。加藤六段對小野田五段、ツカミで行って小野田氏先番となり、午前十時から午後五時までゞ打掛けとなった。裨聖會當時、本社の碁は一勝負二十八時間制をとり、日本棋院では最高三十二時間制をとつてゐるが、我社は更に一勝負二十四時間、各自持時間十二時間として、時間の足りなくなった人は負けとなる規約とした。加藤、小野田氏の譜は、来る七日の夕刊より連載される筈である。(坐隠談叢より)

 日本棋院は、それまで各組織が個々に新聞社と棋譜掲載の契約をしていたのを、抽選により一括で提供する方式に改めた。
 しかし、これに不満を持った報知新聞社が、五棋士と独自に棋戦を行って棋譜を掲載する契約を締結した。
 しかしこれは日本棋院が禁じた個人契約であり、棋院は同月八日付をもって以って五棋士に除名を通告、これに対し五棋士側は翌九日付で、次のような声明文を発表する。

 私共の除名に就いて
 棋界の統一と向上とについては、私共もとより異議のあらうはずがありません。そのためには私情も捨て、及ぶだけの努力もして来ました。しかしこの旗印のもとに生れた日本棋院は、すでに半年を経たるにかゝはらず、私共の期待にそむいたこと多く、また、少なからず将来を危ぶまれます。いろいろ申したい理事者の個人的態度については別として、
 一 棋院そのものの基礎薄弱、
 二 經營方針の不確立、
 三 棋院に對する理事者の態度等、
 につき憂慮し、棋客の含まれざる理事會にし、棋客としての改革意見を申述べたいと想ふてゐました。そして、その意を通じて置いたにかゝはらず、突然棋院の名を以って除名の通知をうけました。私共は、この除名の手續について、諒解し兼ねる點もあります。しかも愛すべき日本棋院の将来に至っては、心掛りとなるものが少なくありません。更に、本来の目的である棋界の統一を、棋院そのものから無雑作に破られたことを深く悲しみます。
 私共の態度について御同情して下さった皆様に、厚く御禮を申します。なほ、今後の方針については、追って申上ます。
  大正十三年十月九日
     六段 雁金準一  同 鈴木爲次郎
     同  高部道平  同 加藤 信
     五段 小野田千代太郎
               (坐隠談叢より)


 脱退した五棋士は報知新聞での手合を続行。十月二十五日に「棋正社」設立を宣言し、十一月十六日には山王台の清風亭にて会式を挙行している。当日は、雁金、鈴木両六段の手合の他、高部、加藤、小野田が三十余名の会員の教授にあたったと記録されている。
 また、翌年には雑誌「棋友」を買収して、棋正社の機関紙としている。
 なお、「棋正社」設立の動きが起こったのは、高部道平が、満洲、中国から戻って間もなくしてからのことである。そのため裨聖会や日本棋院などの創立を主導し、策士と呼ばれた高部が、ここでもまた統一された棋院の現状に不満を抱く棋士を扇動したと言われている。

棋院対棋正社対抗戦

対抗戦開始の経緯

 大正十三年十月、棋院より独立した棋正社は、約二年間報知新聞を拠点として活動している。十四年五月に雁金の七段昇段、翌年一月には鈴木の七段昇段を発表するが、この年の三月に鈴木、八月には加藤が離脱して日本棋院に復帰、棋正社は雁金、高部、小野田の三者のみとなる。
 そこで棋正社は局面打開のため、活躍の場を報知新聞から読売新聞に変更し、正力松太郎社長を介して、十五年八月二十日付で、次のように公開により日本棋院に対抗戦を申し入れている。

 拝啓、硯筆愈々御多詳奉賀候。陳者我棋正社は、豫て棋界の革新向上を信條とする同志相集りて設立したるものに有之、表面本因坊秀哉氏の率ゐる日本棋院と相異る旗幟の下に兩々相反目するが如き觀を呈し居り候へ共、其實到達すべき目的履踐すべき道程は、彼我同一に候へば、本因坊其人にしては勿論、他の所屬棋士にしても、何等隔意あるにあらず、唯偶然の行懸りに騙られて兩立し來れる次第なるは、今に申し上ぐる迄も無之と存候。
 斯くて我社同人は、爾來數年間、孜々として斯道の研鑽に從ひ、或は先哲の規矩を質し、或は現代の手法を究め、互に相考索して旦暮ただ其の及ばざらん事を虞れ居り候處、不斷の精進と熱誠とは少くも今日に於いて報いられ、假令呉下の舊阿蒙たる域を蝉脱し得ざる迄も、稍々前人未發の境地を窺ひ得たるやの自信を、強むるに至りたるものに御座候。就いては、この機會に於いて、日本棋院と交渉を開き、名人秀哉氏とも自由なる對局を試みて、倶に與に大正棋壇の興隆に努力致し度、切望罷在候(後略)。
   大正十五年八月二十日
      棋正同人 七段 雁金準一
           六段 高部道平
           六段 小野田千代太郎


 自分たちは前人未発の域に達しつつあり、名人秀哉とも自由に対局し、共に大正棋壇の興隆に努力しようと、あたかも名人と同格であるような挑発的内容でもあり、日本棋院副総裁大倉喜七郎は当初これを拒絶していたが、正力松太郎社長が名人秀哉に働きかけ、読売新聞の企画による「日本棋院対棋正社敗退手合」、通称院社対抗戦が実現する。

対抗戦の推移と野沢の参戦

 対抗戦は双方の棋士が交替で出場する勝ち抜き戦形式で実施、初戦は本因坊秀哉と雁金準一(先番)戦で大正十五年九月二十七日に開始された。

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