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囲碁史記 第41回 江戸時代の囲碁事情


家元の生活

 御城への出仕については以前述べているので参照いただきたい。
 御城碁では御暇願といった手続きのほか、家元は多くの規定や儀礼によって束縛されていた。
 家元当主が弟子へ跡目相続させる場合、寺社奉行に対して相続願とは別に親類書を提出しなければならない。相続人の父、母、叔父、叔母、従兄弟に至るまで、住所、職業、年齢等を記し、「右の外忌掛りの親類はございません」と末尾に附けなければならなかった。新類書に関しては、それぞれの人物のところでも紹介しているので参考にされたい。
 安永五年(一七七六)四月には林門入が寺社奉行へ婿養子の門悦について扶持を願出たものもあるが、繰り返しほぼ同一文面の願を提出した後で、二ヶ月後に許可されている。
 長期休暇の場合も届け出が必要である。本因坊や他の家元の湯治願が大橋家文書にあるが、行先や期間が記されているうえ、湯治を薦めた医師の名前まで報告しなければならなかった。何事も序列を重視する封建制の時代であったためか、安井仙角の休暇延長などに関して、届け出は囲碁方の代表である本因坊家を通じて提出されている。
 御城に出仕する立場にあった碁打ち達に対する命令書(寛政七年・一七九五年推定)も遺されている。興味深いのは、お互いに公用、私用を問わず訪れてもよいが、御城碁出仕者以外の者と稽古することを禁止するという内容である。違反した際には罰則が付くとも記されている。これはその年の御城碁出仕者へ申し渡されたものであるが、なぜこのような禁止をしたのかは不明である。考えられることといえば、禄を受けている者が、みだりに他から謝礼や報酬を受けてはならない、官賜の住宅なので市井の碁会所同様に不特定多数の者を集めて稽古所にしてはならない、非公式の対局であっても将軍家上覧の認可を受けている者がもし負けた場合に、徳川家の権威にかかわる等が理由として挙げられる。

碁盤と碁石

 十七世紀から十八世紀にかけて囲碁は日本において大いに普及していく。愛好者が増え、それに従い用具の需要も増大していった。囲碁の用具として重要なのは碁盤と碁石である。ここでは碁盤について見ていこう。
 文献から碁盤は時代とともに少しずつ変化していったことが窺える。変化といっても古代のような盤の路数等の変化ではなく、高さなどの変化である。
 十三世紀に描かれたという「吉備大臣入唐絵」では、当時低い盤が用いられていたことが分かる。十三世紀の中頃の、武士の妻が碁盤を枕に昼寝をしているという記録もある。枕にできるということはそれほど低かったということなのであろう。
 碁盤の高さは室町時代から江戸時代初期にかけて次第に高くなっていったといわれている。加工技術の向上により厚い板の盤が製作できるようになり、碁盤の脚の形も変化していったようだ。
 一五三二年の書物には、碁盤の高さ六寸(約十八センチ)とあり、十七世紀中頃に本因坊道悦が提唱した碁盤の高さでは七寸八分(約二十三センチ)となっている。盤が高くなったのは作法として対局者が正座するようになったこととも関連しているのであろう。道悦は御城碁に出仕していたので、そのときに用いる碁盤の高さを望んだのであろう。
 碁盤の高さに関係するのは盤の厚みと脚の形である。
 奈良時代の脚は二枚の板を平行に置いただけの簡単なもので、古代から中世にかけてはこのような素朴なものであったのだろう。十三世紀から十四世紀の絵巻には逆L字型の格狭間型という形が見られる。この脚の形は長く続けられ、室町時代の作である藤田美術館蔵の碁盤もそのような形状である。十六世紀後半の屏風に描かれている碁盤の脚は現在の型とほぼ同じになっているが、将棋盤はL字型で描かれている。この時期には二つの型が並存していたと考えられる。現在のような脚の形は江戸時代になって定着していったと考えられる。宝暦頃の「囲碁遊戯の図」では現在のものと同じになっている。『橘庵漫筆』(一八〇一年)には、「碁盤の脚は梔子くちなし形」と明記されているが、式亭三馬の描く『浮世床』に置かれた碁盤は庶民の集まる場所に相応しく丸太状の素朴な脚になっている。この頃の脚部の長さは三寸(約九センチ)程度だった。
 

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