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囲碁史記 第97回 秀栄の昇段と安井家断絶


秀栄・算英十番碁と秀栄の昇段

 明治二十八年に、高田たみ子の支援のもと「四象会」を立ち上げた本因坊秀栄は、秀甫亡き後の碁会第一人者の立場を確かなものとしていく。「四象会」へは坊社の垣根を越えて方円社からも有力な棋士が参加している。
 明治二十九年五月には頭山満の主催で石井千治(五段)と十番碁も打っている。石井の先で、結果は秀栄の八勝二敗に終っている。通常であれば十番碁の場合、少くとも第六局以前に先二に手合が直るはずだが、胸を貸すつもりであったのか第七局以降も先で打たれている。

 明治三十年二月からは、高田たみ子の主催で秀栄と安井算英の第一次十番碁が打たれている。当時、秀栄は四十六歳で七段、算英は五十一歳の六段で、手合は先々先で行われた。

秀栄・算英第一次十番碁(明治三十年・湯島の高田邸)
※△は先番
第一局 二月九日   △算英 六目  秀栄
第二局 同月十八日  △算英 六目  秀栄
第三局 同月二十八日 △秀栄 五目  算英
第四局 三月十日   △算英 二目  秀栄
第五局 五月十二日   秀栄 五目 △算英
第六局 同月二十五日 △秀栄 二目  算英
第七局 六月八日    秀栄 三目 △算英
第八局 同月十五日  △算英 五目  秀栄
第九局 七月十日   △秀栄 十一目 算英
第十局 同月二十二日  秀栄 中押し△算英

 算英は幼い時に本因坊家にて修行している事から、二人はその頃からの関係であるが、当時の棋譜はほとんど残っていない。二人が囲棋奨励会を発会したあたりから、棋譜が多く見られるようになってきた。
 算英が五段の時、七段の秀栄とは二段差の手合割りで後者の先であった。しかし、算英が六段になると手合割りは先々先に改められた。これは秀栄が打込まれた訳ではなく、安井家当主に対し礼を尽したものと考えられている。
 続いて明治三十一年六月から十二月にかけて第二次十番碁が行われる。
 主催は第一次と同じく高田たみ子で、会場も高田邸であった。

秀栄・算英第二次十番碁(明治三十一年・湯島の高田邸)
第一局 六月十三日  秀栄 中押し 算英
第二局 同月二十三日 秀栄 中押し 算英
第三局 同月三十日  秀栄 一目  算英
第四局 七月八日   秀栄 中押し 算英
第五局 十月三十日  秀栄 中押し 算英

 算英との第二次十番碁が始まる少し前の、明治三十一年三月に本因坊秀栄は周囲の勧めを受ける形で八段へ昇進している。
 秀栄は、名人(九段)の実力がありながら、時代に翻弄されて到達する事のできなかった父秀和と同じ段位に到達したのである。

安井算英

 明治以降、対立する本因坊家と方円社の間に立ち、両者の融和に向けて尽力してきた安井算英について改めて紹介しよう。算英は同じ家元として秀栄の良き理解者であったともいえる。
 安井家十世で、最後の家元となる算英は、弘化四年(一八四七) 九世算知の 子として江戸に生まれる。
 以前も紹介したが、算英は幼い時に父の門人に碁の手ほどきを受けていたが、ある日、算英が打つ手が余りに未熟なため、海老沢(巌埼)健造が思わず手を挙げてしまい、算英が母親へ泣いて訴えるという騒動が起こっている。結局、健造から算英の打った手を見せられた算知は、よくやってくれたと健造を誉め、子供の訴えを算知に伝えた妻に対し、一方の話だけを聞いて判断するなと諫めている。
 算知が安政五年七月、沼津で客死したとき、算英はまだ十二歳であった。当時、安井家は本因坊家に匹敵するぐらい優秀な人材が揃っていたが、坂口仙得が算知の意向を無視して本因坊秀和の碁所に反対するなどしたため、算知の未亡人は算英の育成を門下ではなく本因坊家に託している。
 算英は万延元年、十四歳で入段し、同年十二月八日に初めて御城碁へ出仕している。文久元年、二段に進み、翌年には三段となるが、さらに翌年の文久三年、母を失ない孤独となった。
 明治二年(一九六九)、本因坊跡目秀悦、林秀栄、中川亀三郎、小林鉄次郎、吉田半十郎と共に六人会を結成。明治五年、二十六歳の時に 五段に進む。
 明治十二年四月、本因坊、林両家と共に方円社へ参加したが、同年秋に家元側と行動を共にして方円社を脱社している。

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