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囲碁史記 第90回 方円社三小僧


 明治十二年に発会した「方円社」は、社長・村瀬秀甫、副社長・中川亀三郎を中心に、小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎の方円社四天王を始め、多くの有力棋士に支えられ発展してきた。
 しかし、明治十六年に酒井安次郎、翌年には水谷縫次が亡くなり、明治十九年には秀甫や、設立に向けて尽力した高橋周徳が亡くなるなど、当初の主力メンバーが徐々にいなくなっていった。
 一方で石井千治、田村保寿、杉岡栄次郎の方円社三小僧を代表とする方円社で育った若手の棋士も出始め、囲碁界の世代交代が進んでいった。
 今回は、方円社三小僧について紹介していく。

石井千治

石井千治

 方円社の塾頭を務め、後に二代目中川亀三郎を襲名し、方円社四代目社長に就任したのが石井(中川)千治である。
 明治二年(一八六九)、茨城県笠間で、旧笠間藩士の家に生まれる。元の名は仙治である。
 幼い時に隣家で碁を教わり、七歳の時に親戚宅で数人と碁を打ち全勝したことで父から褒美をもらい一層碁に興味を持つ。なお、この年、父と死別している。十歳の頃には北関東一帯で名の知れた存在となっている。
 笠間藩は徳川綱吉の側用人を務め、自ら本因坊門下と称するほど囲碁好きであった牧野成貞の長男、牧野貞通が延享四年(一七四七)に転封となって以降、幕末まで続いている。
 最後の九代藩主・牧野貞寧まきのさだやすもまた囲碁好きであったため、仙治が十四歳の時に東京の屋敷に住まわせ、方円社の村瀬秀甫に技量を見てもらうことにする。この時、仙治は秀甫と聖目を置いて対局し大敗しているが、秀甫は仙治が将来高段者となると見抜き入門を許し、明治十五年(一八八二)には方円社の最初の塾生となった。塾生の中で石井が年長であり、実力も一番上であったことから塾長を務めている。
 当時の石井について五歳下の田村保寿は、著書「本因坊棋談」(昭和十一年)で次のように語っている。

 ツライと云へば、その時分の塾生への教え方は、碁を非常に早く打たせたもので、つまり感所を早く呑み込ませる修業をさせたもんだ、これには弱らされた。私は性分でもあろうが、よく考えて弱りながらも自分の腑に落ちない手は打ちたくなかったので、私が局中うっかり考えてでも居ると、默ってポカリと横面を御見舞申されたもんだ。(中略)
 その塾頭の石井がまた早い棋で――後に中川となってからも、どちらかといえば早い方だったが――自分が早いもんだから、このボカリを真似するんで閉口した。

 後に田村は石井とよくこの話をして笑ったもんだと語っている。
 明治十七年に初段となりその後、四段まで一年に一段づつ昇っていくが、五段となったのは明治二十五年、この時、昇段に異を唱えた小林鉄次郎と、石井先の打込み碁を実施し、十九局目で四番勝ち越して昇段を果たしている。
 明治十九年は、林家の分家である女流棋士林佐野の養子となり、林千治と名を改めている。佐野は養女の文子と結婚させ跡を継がせるつもりであった。しかし、大酒を飲む千治を文子が嫌ったため、明治二十四年に養子縁組は解消され石井姓へ戻っている。なお、この時、名前の方は千治のままにしている。
 その後、明治三十四年(一九〇一)三十二歳の時に六段となり方円社副社長へ就任。二年後に中川亀三郎が亡くなった際の遺言にて養子となり、中川千治となる。
 その後、方円社の意見の対立により方円社を退社した後、復帰して社長に就任することとなるが、その経緯については別途紹介させていただく。

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