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囲碁史記 第104回 本因坊秀栄名人就位と逝去


名人就位

 明治三十九年六月十九日、本因坊秀栄は念願の九段へ進み名人となる。名人は現在ではタイトル戦となっているが、もともとその人物を讃える尊称で あり、一時代一名しか存在できなかった。みずから名乗るものではなく、後に名人となる本因坊秀哉も日本棋院創立後の免状では、「審査役名人」の肩書きが用いられたが、これは事務局が書いたもので、自身は名前しか書いていなかった。他の署名には「九段日温」など段位や日号などが用いられている。
 秀栄の前に名人であったのは中川亀三郎の父本因坊丈和である。江戸時代の名人は幕府の役職である碁所を兼ねることとなり井上幻庵因碩との激しい争いの上での就位であった。秀栄の父秀和も名人となる実力はあったが、幕末の動乱期のため認められなかった。
 明治期になると方円社長の村瀬秀甫が晩年に名人(方円社で は「第一級」) になるよう周囲から勧められたが、顔を真赤にして断わったと伝えられている。元本因坊門の塾頭であった秀甫にしてみれば、師匠の秀和や兄弟子の秀策でさえなれなかった名人に自分なんかがという思いがあったのかもしれない。それだけ、当時の碁打ちでは名人とは重い意味をもっていた。
 その名人に本因坊秀栄が就位したのは、父の果たせなかった夢であり、現在の家元筆頭本因坊家当主という思いもあっただろうが、当時、日露戦争の戦捷景気に湧き武士道を鼓舞する動きがあったこと。大相撲の国技館が完成するのもこの何年か後だが、国技囲碁にも名人をという雰囲気が醸成されていた。また過去幾度となく名人位を巡り争ってきた家元四家の内、林・安井家は既に断絶し、井上家も大阪へ拠点を移していたこと。そして何より当時方円社を含めて自身が棋界最高の実力者となったというタイミングであったためと考えられる。まさに機は熟したということである。
 しかし、秀栄の名人就位に異を唱える者がいた。方円社の社長巌埼健造である。やはり三代目社長という立場で、黙っているわけにいかなかったのだろう。ただ、秀栄と巌埼は共に当時のトップクラスの棋士でありながら、性格的に合わなかったのか残されている対局譜は驚くほど少ない。 
 巌埼は秀栄の昇格について争碁を申し入れているが、門下の中から代理を立てると返答している。秀栄としては巌埼は決して恐しい相手ではないが、有名な長考派であり体力勝負になり年齢的にかなり厳しい対局となる。立場上とりあえず反対したともとれるため、まじめに取り合う必要はないと考えたのだろう。巌埼は代理は田村保寿であろうと考え、それでは意味がない、と笑い捨てたという。
 巌埼は一言異を唱えることで面子を保ち、秀栄はそれを軽く受け流して、世間を納得させ、こうして丈和以来七十五年ぶり、碁所と関係のない新しい時代の名人が誕生した。

名人披露会

 『時事新報』には明治三十九年六月二十四日、江東伊勢平楼において秀栄の名人披露会が開催されたと掲載されている。
 秀栄は当初、頭山満に名人になるよう説得された際、断っている。理由はお金がないからということであり、その大半は華やかな披露会のために必要な費用であった。
 頭山がいくら必要かと聞くと、「三千円ぐらい」(約一億円)とのことで、それを頭山が出すと言ったことで、秀栄の名人就位がまとまったという。なお、当日は三百余名集まり、祝儀も五千円以上集まったと言われている。
 披露会では田村保寿と雁金準一、伊藤小太郎と野沢竹朝、内垣末吉と岩佐銈らの対局が行われ、秀栄最後の盛大な披露会となる。

秀栄の後継者

 秀栄が名人となったのは五十四歳の最晩年。この時、秀栄は跡目を決めていなかった。それは、秀栄と後継の最有力候補である田村保寿の関係が冷え切っていたためである。
 なぜ、田村は師匠秀栄に疎まれたのだろうか。それについて、秀栄門下の野沢竹朝が雑誌の連載にて次のように語っている。

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