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囲碁史記 第38回 低迷から中興の時代①


 本因坊察元が登場する前後の囲碁界を見ていく。察元の登場により囲碁界は低迷期を抜け出し、家元の碁打ち、現代風に言えばプロ棋士たちばかりではなく、在野の碁打ち、つまりアマチュアにおいても盛り上がりを見せていった時代である。この時期、多くの素人碁打ちが登場し「素人名鑑」というものまで出された。また賭け碁打ちで名を残す人物たちが多く登場している他、御城碁においても家元の高段者のみでなく素人の参加もあったという。
 この中興の時代の様々な囲碁界の状況を考察していく。

安井家

五世安井春哲

 この時代の家元安井家について見ていく。
 五世安井春哲は七世本因坊秀伯の添願人として五世井上因碩との勝負を見守っているが、九世本因坊察元の時代も健在であった。
 安井春哲は正徳元年(一七一一)に生まれ元の姓を田中といった。明治刊の『坐隠談叢』では近江国の生まれで父親を小路権太夫としている。しかし、昭和に入り林裕氏が安井家の過去帳を調査したところ、この記録は四世安井仙角のものであると判明した。過去帳によると五世春哲仙角は会津の生まれで実父は田中次郎兵衛となっている。過去帳には田中次郎兵衛は享保十八年六月十七日没、法名は顔誉道光信士と、実父のことまで記載されていた。なお、小路権太夫は元禄十二年五月二十一日没、法名を超頓浄入居士という。明治期に安井家の調査をしている段階で四世仙角と五世春哲仙角の記録を取り違えてしまったのであろう。

黒 安井春哲 白 本因坊秀伯 一八四手黒ニ目勝ち
(享保二十年十一月十七日 御城) 

 さて、春哲であるが、四世仙角の跡目であった長谷川知仙が没したことにより、その七年後の享保二十年(一七三五)、二十五歳のときに再跡目となり御城碁に初出仕している。春哲は四世仙角の娘を娶っている。このとき四世仙角は五十歳を超えていたが、春哲の成長を待っていたのであろう。四世仙角はこれから一年余後の元文二年(一七三七)の正月に没している。
 その後、春哲は五世安井仙角を名乗り、これまで述べてきた低迷期の囲碁界を支える一人となっていく。
 
 春哲の元文二年の御城碁については不思議なことがある。これは囲碁史に造詣の深い福井正明九段や囲碁史研究家の猪股清吉氏が着目したところである。
 このときの相手は七世本因坊秀伯で先番仙角の一目勝ちであったが、実はこの碁と同一局が存在している。四世本因坊道策の高弟である星合八碩と桑原道節(黒)の棋譜である。これはどういうことか。実は御城碁と記された春哲と秀伯の元文二年の棋譜がこの他に二局ある。猪股氏は、この二局は下打ちとして打たれたものだが、当人たちの納得のいくものではなかったため、対面を重んじ、御城碁では過去の棋譜を再現したのであろうとしている。このような例は五世本因坊道知のときにもあったが、道知が本気で打つと他の家元たちとの差があるので、途中までは同じでそこからヨセの手順を作っていったとされている。
 春哲は奥州会津、秀伯は奥州信夫の出身であり、両者は同郷ゆえの友情関係にあったのではないだろうか。
 
 九世本因坊察元の時代の春哲仙角について述べていく。
 『碁所旧記』にある明和元年の記録を次に記す。
 
一、同年十一月十七日例年之通碁将棊被仰付候
  本因坊(対)先番持碁 井上春達
  井上因碩(対)先番持碁 安井仙角
  先番四目勝 林門入(対)安井仙哲
 同日七半時松平伊賀守殿へ御礼相廻り候処、今日の碁の写明十八日中四通相認差出候様にと御役人大橋五右衛門被申、彼是之事殊の外六ヶ敷事共被申、夜四時過帰宅。
一、翌十八日右碁写春達持参の処、此節は此方斗にて調兼候に付三所へも申遣認出候処、路々是にては揃不申候間同様致し明日中差出候様にと五右衛門被申候、尤板行何角六ヶ敷事共被申、扨々困り申候、十九日夜五ツ過右写出来に付本因坊致持参候処、伊賀守殿并御役人大井数馬右写を二枚宛扣、近習之者弐人にて碁ならへ本因坊は作所見出し三ヶ所へ致差図漸相済、夫より又伊賀守殿御調被成候由にて漸九半時過相済夜八時過帰宅、殊の外困申候。
一、同月廿三日、仙哲参被申候は、先達て得貴意置候仲間手合之事最早別段に得失意申間敷候間、勝手次第世上へ致沙汰候様に被申候、是は九月頃より本因坊手合申出、其上にて外の手合も申進候処、浜町にて彼是事不済候処十一月七日仙哲此方へ参、右手相の事可致承知候ば御城碁前は世間へは先無沙汰に致し、仲間へは承知の段申達呉候様にと被申置候、依之此度手合相進候趣、左之通。
 名人上手間之手合  本因坊
 同断        井上因碩
 対上手先々先之手合 林門入
 同断        安井仙哲
一、同月廿五日右の手合書付伊賀守殿へ本因坊持参、御役人大橋五右衛門へ逢候て此段御届申上置候旨、則書付相渡罷帰申候。

 
 察元が自身の手合昇進に意欲を見せ、その後名人碁所になった経緯は察元の回で述べた。察元は八段に昇段をした際に他の三家の手合も一緒に進めたい旨を申し出て、五世井上因碩(春碩)は八段へ同時昇段を果たし、八世林門入(祐元)と安井家跡目仙哲(後の安井家六世)は六段に昇段している。ここで注目されるのが五世安井春哲仙角である。このとき六段であった仙角は因碩と同様に囲碁界の長老であった。跡目仙哲が同じ六段に昇段したのなら、これまでの慣例に従い家元間の関係や年齢に配慮して仙角は七段上手に昇段するのが普通である。実力が劣り昇段できないのなら理解できるが、そうでもなかった。
 ここで先の記録を見てみると、跡目仙哲が察元を訪れ、当主仙角が自分抜きで進めてよいと言っている旨伝えている。つまり、春哲仙角自ら昇段を断っていたことになる。このことは本書でも度々登場している猪股清吉氏も唱えておられる。仙角の真意は分からないが、形式的な昇進は要らないと考えたのか、後進に道を譲るためだったのかもしれない。
 春哲仙角は察元が名人になってからも六段の手合であった。察元が名人になってから四年目、四十一歳のときに御城碁御好対局にて春哲仙角との十五年ぶりの対局が行われている。春哲仙角六十一歳の時である。名人(九段)と六段は二子と先の間の手合であるため、この時も二子による対局となった。しかし、この対局について「名人の手合御免」と記録されている。春哲仙角が察元との二子局は御免といったのか、察元から春哲仙角と打つのに二子局は御免といったのか定かではない。
  春哲仙角は安永四年(一七七五)十二月十二日、六十五歳で隠居し、跡目の仙哲に家督を譲っている。そして寛延元年(一七八九)十二月十六日、七十九歳で没する。晩年には八段に推されている。
 春哲仙角についてはもう一つ特筆すべきことがある。安永元年、門下の坂口仙徳を分家格として御城碁に出仕させたことである。これにより「坂口家」という外家が成立していく。

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