見出し画像

囲碁史記 第123回 日本棋院創立


 関東大震災で甚大な被害を受けた裨聖会の高部道平は、再建のため大倉喜七郎を訪ね後援を依頼している。
 これに対し、統一を巡る囲碁界の混乱を知る大倉は、「裨聖会だけの援助はしたくない、しかし中央棋院、方円社、裨聖会など全碁界が一つにまとまるためなら援助を惜しまない」との意向を伝えた。
 これを聞いた高部は、直ちに本因坊秀哉および方円社の新社長岩佐銈と協議し、各派を統一していく方向で話がまとまった。

日本棋院創設までの流れ

 秀哉の意を受けた小岸壮二が急逝するという痛手はあったが、地方棋士も含めて話し合いが進んでいく。
 以下、その後の流れをまとめてみた。

明治十三年三月十二日
 帝国ホテルにて「碁界合同問題基礎協議午餐会」開催。
四月二十一日、二十二日
 雁金準一、野沢竹朝、稲垣日省(兼太郎)、田村嘉平、久保松勝喜代、木村廣造、光原伊太郎、吉田操子等、中京・関西を含めた有力棋士が帝国ホテルに集まり合同協議会を開催。
四月二十五日
  合同協議会出席者の記念撮影。
四月二十七、二十八日
  本因坊秀哉、中川亀三郎(千治)以下十二名、段位合計七十四段に及ぶ連碁の催し開催。

 なお、井上因碩は事前協議の段階で合同への不参加を決め、野沢竹朝は協議会へは出席したものの合同への参加は見送っている。
 五月以降の動きは次のとおりである。

五月十二日
 碁界合同の協議は一段落したのを機に、高部道平は中国での囲碁普及のため北京へ旅立つ。
五月二十日
 都下各新聞社を築地錦水へ招待し、「日本棋院」創立を披露。
五月二十一日
 方円社解散にともない、五反田の松泉閣において決別の宴を開催。
七月十七日
 日本棋院創立発起人会を帝国ホテルにて開催する。
 ※これをもって日本棋院では七月十七日を創立記念日としている。
七月二十三日
 牛込区船河原町の旧中央棋院にて初の定式手合を開催。
大正十四年八月二十二日
 財団法人設立。十一月二十六日付官報に掲載。

官報(大正一四年十一月二十六日)

ここから先は

3,364字 / 6画像
この記事のみ ¥ 300
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?