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囲碁史記 第61回 因島の神童本因坊秀策登場


虎次郎誕生

しまなみ海道

 秀策は文政十二年(一八二九)五月五日、備後国御調郡三浦村大字外之浦、現在の広島県尾道市因島外浦町に生まれた。因島は、かつて毛利元就を支えた村上水軍が拠点とした瀬戸内海の島で、現在では西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で本州および四国と結ばれている。
 父の桑原輪三は雑貨商。妻カメとの間に二男一女があり、秀策は次男である。輪三は対岸三原から入婿している。実家の安田家は代々庄屋を勤める士分に近い家柄であった。
 秀策の幼名は虎次郎。母カメは碁を知っており、胎内にあるときしばしば碁を並べていたと伝えられる。
 虎次郎が三、四歳の頃、どんなに泣いても碁石を与えるとすぐ泣き止んだといわれ、父に叱られ押入れに入れた時に、泣声が聞こえなり心配した家族が覗いて見ると、しまっていた碁盤に碁石を並べて遊んでいたという。母が碁を教えたのは五歳のときだった。

本因坊秀策囲碁記念館
復元された生家
生家の内部

 なお、秀策の生家は老朽化のために取り壊されているが、跡地隣りに平成二十年に建てられた本因坊秀策囲碁記念館の敷地内に生家が復元されている。復元された生家は井山裕太本因坊初の防衛戦(二〇一六)や第七一期本因坊戦の対局場として使用されている。

解体された因島石切神社

 また、生家跡には桑原家が宮司を務める因島石切神社が建立されていたが、二代目宮司が亡くなり後継宮司がいなくなったことから廃社が決まり二〇二〇年に解体されている。

橋本竹下に見いだされる

 天保五年(一八三四)九月、虎次郎六歳の時に、商用を兼ねた父に連れられて備後国尾道に相撲見物に向かっている。町のほぼ中央に鎮座する艮神社の秋の大祭である。

尾道

 江戸時代の広島藩では政治は広島、経済は尾道と言われ、尾道港では北前船が寄港する大阪、九州との交易地として、海産物をはじめ農産物、肥料、船具等に至るまであらゆる物資が取引され、藩は尾道港を藩の直轄地として町奉行を置き支配と保護を行ってきた。全国各藩の御用商人も多く出入りし、岡山、広島あたりの商人から、瀬戸内海に浮かぶ多くの島々の商人までも尾道港へ出入りしていたという。それ故、艮神社は港の問屋衆の多くを氏子に持っていた。
 虎次郎の父桑原輪三もその氏子の一人で、取引先に来た帰りに虎次郎を連れていこうとしていたのである。ところが輪三が取引先である肥料問屋大紺屋渡橋源兵衛の店で番頭と話をしている間に虎次郎の姿が見えなくなってしまう。まもなく境内で相撲が始まるので待ちきれなくて出かけたと思い境内を探したが見つからない。そして輪三が大紺屋へ戻ってみると、虎次郎は石音に引かれて奥座敷に入り込んでいたという。輪三は恐縮して連れ出そうとしたが、虎次郎は碁盤の横に座って動かず、輪三は一人で相撲を見に行ったという。このとき店の主人と対局していたのが、のちに秀策の終世変わらぬ後援者となった橋本吉兵衛(加登灰屋、号竹下)である。竹下は熱心に碁を見ていた少年に試しに九子置かせて一局試みたが、とても覚えたてとは思えない実力であったという。一説によれば虎次郎が他人と対局したのはこれが最初であるとも言われている。驚いた二人が三、四局試みたところ、一局ごとに進歩のあとが見え、帰ってきた輪三にそのことを告げ、気を付けて養育して欲しいと伝えている。翌年年頭の挨拶で、もう一度対局したときは、初段の竹下も四子で持て余したといわれ、その年の秋には互先で虎次郎に余裕があるほど上達していた。対局態度もよく、早見えで、二人はその上達の速さにすっかり感心したという。
 橋本家(屋号「灰屋」)は尾道にて一族で廻船問屋や金融業・醸造業などを営んだ豪商であつ。もともと紀州橋本の出であり浅野家が紀州から広島へ移封となった際に随伴してきたと伝えられている。
 一族は本家の次郎右衛門家(灰屋ないし東灰屋)と分家の吉兵衛家(角灰屋)に分かれ、その後、本家から甚七家(西灰屋)が分かれている。
 享保期頃(十八世紀前半)には西灰屋が一族の中心的存在であったが、その後衰退していき、代わって角灰屋が質店など西灰屋の経営も引き継ぎ事業を拡大していく。
 角灰屋はもともと廻船問屋に資金を貸し付ける商いをしていて、その担保は船荷である穀物などが中心であったが、文化文政期以降(十九世紀前半)七代橋本吉兵衛徳聰の頃から担保を土地や建物などに切り替え、不動産業や耕地を利用した塩田の運営によって尾道最大の豪商へと成長していった。角灰屋は当主が代々吉兵衛の名を継いでいて、明治期の当主九代吉兵衛徳清(海鶴)は、明治十一年(一八七八)第六十六国立銀行(現広島銀行)設立に尽力し初代頭取に就任。政治家としても活躍している。
 秀策とつながりのある橋本竹下とは七代橋本吉兵衛徳聰の事で、豪商としてだけでなく、尾道文化人の中心的人物としても知られた人物であった。竹下は号であり、名前ものちに荘右衛門と改めている。竹下は寛政二年(一七九〇)、先代橋本吉兵衛徳貞の妻の実家である三原川口氏に生まれ橋本家へ養子として迎えられる。文化五年(一八〇八)に徳貞が没し、吉兵衛を襲名して家督を相続。灰屋の当主として僅か十九歳で尾道町年寄にも就任している。
 竹下の事業運営は自らの利益追求というより公共性、社会性に配慮したものであったと言われ、天保飢饉の際には尾道近辺に発生した困窮者の救済策として食料を無料で配布するのではなく、私財により公共事業を行い、困窮者を雇って仕事に従事させている。具体的には自らの檀那寺である慈観寺の本堂再建工事や、三原(糸崎)沖への大規模な塩田を造成。自宅の新築工事もあった。竹下には、ただで物を与えては自立心が育たず、真の復興につながらないという信念があったのかもしれない。竹下の救済策の影響もあり尾道では餓死者を一人も出すことは無かったと言われている。三原沖に造成された塩田は天保新開と称され橋本家の事業の柱のひとつであったが,もとはこのように救済支援策が始まりであった。
 竹下は広島浅野藩三原浅野家への出入商人としても信用があり藩主の知遇を受けていた。
 また、文献によると竹下は「学を好み、詩文に秀で、風流洒落ある紳士、身分の高低問わず、誰にでも礼をもって接し、人々から慕われる君子」と評されている。文人としての一面を持つ竹下は、地元で活躍した女流画家平田玉蘊らと交友し支援した事で知られ、自身も福山藩お抱えの儒学者で漢詩人としても知られた菅茶山に学び、次いで京都で幕末の尊王攘夷運動へも影響を与えた思想家・漢詩人の頼山陽の門人にもなっている。
 竹下の遺した漢詩は、後に息子たちによって編まれた「竹下詩鈔」(一八八四年刊)などで紹介されている。

爽籟軒
庭園

 竹下は頼山陽の他、京都の画家田能村竹田等とも親交があり、彼らが各地へ旅行した際の行きかえりには必ず橋本家へ立寄って長逗留するのが常であった。
 尾道の豪商たちは、江戸時代後期から大正時代初めにかけて斜面地や海岸沿いの風光明媚な場所に「茶園さえん」と呼ばれる別荘を建て、文人たちの交流の場としていたが、頼山陽や秀策らが立ち寄ったであろう橋本竹下が建てた茶園の一部は日本庭園「爽籟軒そうらいけん」として一般公開されている。爽籟軒はかつては海に面し海水を直接庭へ引き入れていたため、船が直接庭に入ることができたそうだ。

浅野忠敬との出会い

 竹下に見いだされて以降、「因島に碁の神童が現れた」と虎次郎へは対局の申し込みが殺到していくが、噂を聞いた三原城主浅野甲斐守忠敬も虎次郎を召出し対局している。

三原城跡

 三原浅野家は広島藩主浅野家の分家で三原三万石を領し代々広島藩家老職を務めてきた。忠敬は藤堂監物信任の次男として伊勢国津に生まれた。母は三原家第八代当主浅野忠正の娘。文化十一年十四歳のときに第九代当主浅野忠順の養子として迎えられその跡を継いだ。文化十三年(一八一六)、広島の自邸内に講学所(のちに朝陽舘)を設け、江戸より湯浅正平を招聘して藩士に儒学を学ばせている。また、文政三年(一八二〇)七月、三原城に藩校の明善堂を設置し、備中国内から西山孝恂を招聘し初代教頭とする。文政十一年には三原城北隅櫓の石垣孕出の補修にあたり、図面を添付して老中青山忠裕に申請をし、文政十三年四月に老中連署の奉書により許可を得る。天保三年(一八三二)に江戸へ出て将軍徳川家斉に拝謁し礼を述べるなど藩政全般に尽力した人物であった。
 この頃の尾道の問屋筋は浅野家の台所として経済的にも深い繋がりがあり、虎次郎の噂はこうした方面からも城中に持ち込まれたのであろう。
 余談だが、居城の三原城は、天主台跡にJR西日本三原駅および山陽新幹線の三原駅がある全国的にも珍しい城跡である。これは現在は埋立てられているが三原城はもともと海岸に面した海城であったためで、明治期に全国で鉄道網が敷かれた際、用地買収の容易さから海岸沿いに鉄道が通されたためである。
 忠敬は相当な囲碁好きで当時備後、安芸で有数の打ち手であった竹原の宝泉寺住職葆真を招いてしばしば手合わせしていたほどだった。虎次郎との対局は手合も勝負も不明だが、忠敬の長考に退屈した少年が席を外して縁側に出たという話が伝わっている。さらに、虎次郎の棋力に感心した忠敬は、何か欲しい物があれば取らせると言い、虎次郎は床の間に置いてあった葵の紋のついた蒔絵の硯箱を希望する。その硯箱は将軍家よりの拝領品で秘蔵の品であったが忠敬は気持ちよく与えたという。虎次郎は後に江戸の書家竹雪道人に書を習い、師を凌ぐ能書家となっている。
 橋本竹下が虎次郎を推挙としたと言われているが、この対面は広島藩の儒者坂井虎山が推挙したとの説もある。後に虎次郎が師と仰いだ人である。
 
 虎次郎の才能に感心した忠敬は、虎次郎を茶坊主として勤務させている。
 虎次郎が安田栄斎と改名したのはこの時期である。安田姓は父の実家の姓であり、下城のたびに因島まで帰るのは容易でなかったため、安田家へ寄留していたものと思われる。

西福寺(広島県三原市西野2丁目11−16)
安田家の墓
古い安田家の墓

 安田家のあった三原市西野は三原城から西へ直線で二km余り離れたところにある。元亀年間に創建された西野の西福寺は当初、安田家だけの氏寺であったそうで、安田一族の墓がある。

宝泉寺での修行

 御城へ出仕するようになった安田栄斎について浅野忠敬はその後、葆真に指導を依頼している。

宝泉寺(広島県竹原市下野町1565)

 竹原宝泉寺の住職である葆真和尚は、当時このあたりに聞こえた碁豪で後に三段まで進んでいる。安芸国では有段者は四名程しかいなかった。葆真は地方にこそいたが、服部因淑や十一世井上因碩(幻庵)も訪れるほどであった。漢学にも通じ詩文も残しており、画道でも竹原と号して作品を残している一流の文化人であった。浅野忠敬の知遇を受け、晩年には特に拝領した駕籠での出仕を許されていたと伝えられている。虎次郎も葆真和尚より囲碁以外の教養を学んでいく。
 宝泉寺についてであるが、当時の山門は本堂と不釣合いな程豪壮な構えであったという。この山門も浅野家から拝領したもので、法泉寺は京都西本願寺より寺格に過ぎる門を建立したとして強い叱責を受け、一時は波紋扱いになったと伝えられている。

 葆真の教養と棋力、指導によって栄斎は飛躍的に上達していく。栄斎が八歳のときには葆真と互角に戦うまで成長していたという。後年、秀策となった栄斎は帰郷の度に葆真と対局し、御城碁の自筆の棋譜を届けるなど、この頃の恩に報いている。
 
 天保八年に、坊門五段伊藤松次郎が尾道を訪れる。人に頼まれ栄斎と打つことになるが、現れた九歳の少年を見て松次郎は不快の色をかくさず、初段近く打つと聞いて「初段では座敷ホイトだ」と放言したという。ホイトとはこの地方の放言で物乞いのことで、少しくらい強いのを鼻にかけ、あちこちの座敷をまわる物乞い同然の子供だと嘲笑ったのだ。
 ところが、実際に打ってみて松次郎は驚いた。初段の力を認めざるをえなかったのだ。十数年後、秀策が本因坊跡目に定まり、松次郎も上府して松和と名乗っていた時期、松和は往時の非礼を正式に詫びたという。これに対して秀策は「あのときの言葉を聞いてわたしは自分を督励することができました。むしろお礼を申し上げるのはわたしの方です」と答えたという。
 とうとう葆真の力を超える日がきた。天保八年の暮、栄斎は三原侯の声がかりで江戸で修行することになり、家臣に連れられて本因坊家へと向かう。家元四家のうち坊門を選んだのは松次郎の推挙があったのかもしれない。
 江戸に着いた栄斎は上野車坂下の本因坊道場に入り十二世本因坊丈和の内弟子となる。こうして栄斎は碁士生活のスタートを切った。正式に初段を許されるのはその二年後のことである。

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