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囲碁史記 第105回 明治期の地方棋士の動向 中京編


 江戸時代後期、名古屋周辺もまた囲碁の盛んな地域であった。伊藤子元により育てられた伊藤松和ら有能な棋士が江戸へ出て活躍していく。明治以降もそれは変わらず、地方にあって活躍する棋士も多かった。

杉山千和

「囲棋等級録 : 改正」明治17年

 方円社が設立されて数年後の明治十七年に刊行された「囲棋等級録 : 改正」をみると、五級の高段者の中に巌埼健造、高橋杵三郎らと並んで、杉山千和、高橋泰策の二名の濃洲出身者の名もみられる。梶川昇も後に名古屋を拠点に活躍している。

千和の経歴

 まずは杉山千和について紹介する。
 杉山千和は文政四年(一八二一)、岐阜県安八郡の大吉新田村(大垣藩)に住む山本源十郎の三男として生まれる。名は顕、字は孝夫、通称は又吉という。
 幼い頃から漢学・詩文を高須藩の儒者川内当々に学ぶ。一方で碁を父から教わり、後に名古屋の伊藤松和の門に入り十三歳にして囲碁初段となる。この頃、大垣藩主戸田氏庸に招かれ、囲碁や詩を作り、褒美に爛柯図の絵を賜ったと記録されている。大垣藩と言えば以前紹介した女流棋士・吉田悦子も家老の戸田三彌から支援されている事から、囲碁が盛んな地であったのだろう。
 十四歳の時、藩主氏庸のお供で神戸村の杉山又四郎家に出かけるが、その才能を見込まれて杉山家の娘婿となる。
 神戸村の漢学者で画家である高橋杏村とも親しく交友し、経史・詩文を学ぶ一方、岡本黄石、小野湖山、依田学海等、著名な文人から新しい知識を吸収いていき、私塾を開いて多くの門人をもっていたという。
 また、囲碁も研鑽し安政二年、三十四歳の春に本因坊より五段の免状をもらっている。大垣で暮らす本因坊門下の川瀬鷹之介は碁敵であったという。
 明治十四年五月には東京で村瀬秀甫と対局しているが、秀甫とは二十年ほど前にも大垣で対局したことがあったという。明治二十七年十一月十八日に方円社から六段を贈られている。
 千和は囲碁の他に、茶や花など多趣味で、特に一流の書家としても知られていた。交友関係も広く、明治二十四年に濃尾地震が起きた際に国庫補助金がスムーズに支給されたのは、囲碁や詩を通じた千和の幅広い人脈が活かされたといわれている。千和は大隈重信、松方正義ら政府要人とも親しくしていた。
 千和は明治三十二年十一月二十九日に七十九歳で亡くなっている。

杉山令吉(三郊)

 囲碁とは直接関係ないが、千和の三男、杉山令吉は書家・漢学者として明治期から昭和初期にかけて活躍している。父の才能の内、書家としての能力を引き継いだと言われ、号である杉山三郊の名でも知ら得ている。
 官僚でもあった令吉は外務省に入省し、陸奥宗光の秘書官として日清戦争の講話条約の話し合いへも参加。条約文の草案作製にあたっている。
 日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官・東郷平八郎が旗艦三笠にZ旗を掲げ、「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」の信号文を送り全軍の士気を鼓舞しているが、一説には、この文は令吉が発案したが、それを軍令部参謀の小笠原長生が自分の発案として東郷司令長官に上申したとも言われている。
 令吉は東京商科大学(一橋大学)、早稲田大学で教授として五十年以上にわたり漢学や詩文を担当する一方、杉山三郊としても、約三十年間、東伏見宮依仁親王、同妃殿下に漢籍書道を進講したり、岩倉具視など多くの著名人の書道師範を務めていた。
 書家として多くの作品を残し、大隈重信、陸奥宗光、渋沢栄一の墓碑銘も手掛けている。

杉山令吉の墓(多磨霊園)
千和の通称、又吉の名が確認できる。

 杉山令吉は昭和二十年三月十二日に九十一歳で亡くなり、多磨霊園に葬られる。
 以前、杉山令吉の墓にお参りしたことがある。令吉の経歴を刻んだ墓碑の中に囲碁に関する記述がないか探してみたが特になかった。ただ、「神戸村ニ杉山又吉ノ長男トシテ生ル」と、千和の通称を確認することは出来た。

高崎泰策

泰策の経歴

 高崎泰策は天保十年(一八三九)に美濃で生まれ、明治四十年(一九〇七)に亡くなるまで、大半を故郷で過ごしたが、「精錬の名ことに高し」と坐隠談叢にあるように、全国的に名を知られた棋士であった。
 美濃国安八郡白鳥村の地主の家に生まれた泰策は、八歳の時に叔父から囲碁を学んでいる。
 嘉永五年(一八五二)十月に、大垣で暮らす本因坊門下の川瀬鷹之介五段に井目で教えを受けたのがきっかけで本格的に碁を学びはじめ、大垣で井上門下の藤田馨齊三段の内弟子となって、十六歳の時には師に先の手合となる。以上のような経緯から、安政二年(一八五五)に泰策は初段となるが、免状は本因坊家と井上家の連名となっている。以下が免状の内容である。
  其許囲棋執心修行
  無懈所作稍進於依之
  今般同僚遂会議向後
  對上手三棊子之手合
  初殿令免許後猶以
  勉励可為肝要者也
  仍免状如件
  安政二卯年七月四日
      井上 因碩
      本因坊秀和

   高崎泰之助殿

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