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囲碁史記 第89回 明治期の地方棋士の動向 中国地方編


 前回、幕末から明治にかけて信州・東北で活躍した棋士を紹介したが、今回は中国地方の棋士を紹介する。

岩田右一郎

岩田右一郎の経歴

 岩田右一郎は島根県安来市の出身で、幼いときに本因坊家塾頭を務めた岸本左一郎の指導を受け本因坊家の門下に入る。右一郎の名は尊敬する師匠の名にあやかり名乗るようになったという。
 島根県は江戸時代、碁聖本因坊道策や、弟の井上道砂因碩を輩出している他、岸本左一郎や岩田右一郎、また明治以降に活躍した内垣末吉や野沢竹朝らも誕生している。
 安政五年に左一郎が故郷の大森で亡くなると、当主本因坊秀和は塾頭の村瀬弥吉(後の本因坊秀甫)を名代に立て、岩田とともに葬儀に向かわせ、七段を追贈した。

岸本左一郎の顕彰碑(島根県大田市仁摩町天河内)

 その後、以前も紹介したが、岩田は左一郎の遺徳を偲ぶため、故郷に近い仁摩天河内の満行寺の前の小高い丘に左一郎の碑を建立した。坐隠談叢によると碑は岩田の独力で江戸で作られ、それを現地まで輸送して建てられたという。

道策・道砂因碩の墓碑と由来の碑(大田市仁摩町馬路)

 また、以前紹介した碁聖本因坊道策の故郷、石見国、現在の島根県大田市仁摩町馬路に建立されている道策の墓碑は、過去に何度か再建され、現在の碑は道策三百回忌記念として平成十四年に再建されているが、これは明治十五年に再建された碑を再現したものであり、その明治時代の碑の書は岩田によるものであると現地の由来の碑に書かれていた。このように岩田は故郷島根にて先人たちの遺徳を後世に伝える活動にも力を入れている。
 岩田は囲碁だけでなく絵の才能にも優れていた。地元では棋士としてよりも、むしろ画家として名が知られているという。
 明治七年に五段へ昇段。明治十七年に広島へ行き、連日、囲碁の愛好家が訪れ酒宴が開かれるなど盛況だったという。同年四月十九日、広島で同じ本因坊門下の石谷広策と対局。午前十時に開始し、午後三時に百十八手目を打った時に、突然倒れ、翌二日午前十時に帰らぬ人となる。享年五十歳。

岩田右一郎の墓

岩田右一郎の墓(安来市荒島・円光寺)
墓石に彫られた碁盤や碁笥

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