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記憶と今となくなった場所

あの日、私たちがいた店では大音量で音楽がかかっていた。
なぜか店内に木があって、あちこちに蔦が這っている。
いつもならそれぞれ誰かと話していたのに、その日に限って2人で話していたから
人はそんなにいなかったかもしれない。
「ここもう興味ないよね? 別のとこ行って飲まない?」
連れていかれた少し離れた場所にあるビルの3階のバーにはダーツがあり
テレビではNHKのニュースが流れていて誰か有名人が逮捕された話をしていた。
カウンターの中にいたマスターは優しい人なのか怖い人なのか
一見良く分からないような捉えどころのない風貌をしている。
捉えどころはなかったが、実際は優しい人だった。
バーの名前は誰か私も知っている人が名付けたらしい。
何を話したか思い出せないけど、その店にはアコースティックギターがあって
その日だけではなく、行くたびにギターを弾きながら歌っていた。
何を歌っていたのかももう思い出せない、遠い昔の話だ。

それから長らく行くことはなかった木のある店は場所が変わって
移転した先になって初めて行く用事ができた。
道すがらビルの3階にあったバーのことを思い出したのは
正にそのビルの前を通りがかったときだ。
「そういえばここだったな」
開いているなら帰りに寄ってみようかと記憶にある階段を上ろうとした。
階段の左側にはエレベーターもあったはずなのに、白く高い扉が立ちはだかっている。
大音量のマイクで誰かが話している声は内容までは聞き取れない雑音だ。
しかしそれは隣のビルから聞こえる音で、当のビルはしんと静まり返っている。
扉のこちら側の郵便受けにはどれにも名前が書かれておらず、
ビルの窓を見上げるとどこにも灯りはともっていなかった。

一緒に行った人は遠くに行ってしまったし
ある店は移転し、ある店はなくなってしまった。
楽しかった記憶だけが残って、全部変わってしまった。
だからと言って淋しいとか悲しいとかは思わない。
「変わっていないのは自分だけ」なんて悲嘆にくれるのは自分が見えてない人間のすることだ。

こうして思い出してしまったから、明日にはきっと楽しかった記憶も薄れていくだろう。

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