見出し画像

朝鮮料理店の始祖「明月館」/毎日申報

 10年ほど前の我が国には、およそ料理と呼べるものがなかった(訳注:1912年12月の記事なので1900年代初めを指す)。

 いわゆる居酒屋のほかは、チョンゴル(鍋料理)店、ネンミョン(冷麺)店、チャンクッパプ(スープごはん)店、ソルロンタン(牛スープ)店、ビビンバ店といった料理の専門店と、カンジョン(米菓子)などを扱う菓子店、王宮を離れた宮中料理人の開いた店があるぐらいだった。

 ほこりの積もったぼろぼろの食卓に、全羅道産の大竹(イメージ写真:全羅南道潭陽郡の竹林)を細く切っただけの長い箸と、ろくに洗いもしないため自然と黒漆を塗ったように見える阿峴真鍮の匙(ソウル市麻浦区阿峴洞は朝鮮時代から真鍮器の販売で有名)と、舜王の時代(=はるか太古の昔)より形の崩れた使えもしない素焼きの器を置く。

 その器も、長かったり、大きかったり、丸かったり、角張っていたり、深かったり、浅かったり、黒かったり、褐色だったりと千態万象。盛り付けるのは、食べにくい肉や、魚、野菜、果物。それを紳士、労働者、老若男女が、ひとつの食卓にずらり並んだり、あるいは入り乱れて座ったりしながら、食べ、飲み、あるいは吐き出しているのが常であった。

 そんなとき。

 破天荒なほどに新式で、清潔かつ、完全な料理店が黄土峴(ソウルの光化門あたりを指す)に誕生したのである。

 それが朝鮮料理店の始祖「明月館(ミョンウォルグァン)」だ。

 国の中心である京城は、内外国人の交流が頻繁であるため、大きな事業を論ずる酒席や、娯楽を楽しむ場所が、ひと時たりとも欠かせない。そこで先見の明に優れた「明月館」の主人、安淳煥(アン・スヌァン)氏が、当時二千ウォンの資本をもって新式料理店を創設したのである。

画像1

 その近年稀なる苦労をひと言で書くのは難しいが、これは純然たる営利目的でもなく、一時的な娯楽でもなく、ただ我が国に料理店のあることを世界に誇るものである。

 招待客が1300~1400名にものぼる大規模な会は、「明月館」でなければ満足に開くことができない。今後いっそう発展、活躍、前進し、その名声は国内外に入り乱れ、我が国を訪れる欧米人、東洋人は、「明月館」を見なければ、旅の価値が落ちるとまで言われるようになるだろう。

 今夏、不幸にも道路拡張によって店舗の一部が撤去されたが、現在さらに拡張して新羅式、朝鮮式、西洋式の建物を調えた。広々として、設備が行き届き、大小宴会に素早く対応が可能で、主義は一貫して、良心的な価格と、質のよい料理に、もてなしの心を加え、人事に全力を尽くし、踊りと歌の腕前に優れた人材がいて、貴賓紳士の心身を楽しませて盛り上げるのが、この店の特色と言えよう。

 しかもそれだけにとどまらず、来年の春からは13万ウォンの資金を投資して、さらに拡張をして、支店も各所に出すのだという。

                      -『毎日申報』1912.12.18


<訳者解説>
 朝鮮半島における高級料亭の嚆矢「明月館」は、大韓帝国時代の1903年に創業した。当時の上流階級における社交場、遊興の場としてのみならず、宮中の食文化を広く大衆化した点にも意義がある。近代史を語るうえでも重要な店であり、文中の支店というのが、1919年の三・一独立運動において独立宣言が読み上げられた仁寺洞の「泰和館」である。黄土峴の店舗は1919年5月に火災で焼失。1921年に敦義洞へ移転ののち、1948年に閉店した。


*******************************************************
翻訳者:八田靖史
コリアン・フード・コラムニスト。慶尚北道、および慶尚北道栄州(ヨンジュ)市広報大使。ハングル能力検定協会理事。1999年より韓国に留学し、韓国料理の魅力にどっぷりとハマる。韓国料理の魅力を伝えるべく、2001年より雑誌、新聞、WEBで執筆活動を開始。最近はトークイベントや講演のほか、企業向けのアドバイザー、韓国グルメツアーのプロデュースも行う。著書に『目からウロコのハングル練習帳』(学研)、『韓国行ったらこれ食べよう!』『韓国かあさんの味とレシピ』(誠文堂新光社)ほか多数。最新刊は2020年12月刊行の『あの名シーンを食べる! 韓国ドラマ食堂』(イースト・プレス)。韓国料理が生活の一部になった人のためのウェブサイト「韓食生活」(https://www.kansyoku-life.com/)、YouTube「八田靖史の韓食動画」を運営。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?