見出し画像

どうしてそこに行ったのかって? 3人の子どもの父親だからです。 キム・ヘヨン【前編】/『あなたが輝いていた時』

圧倒的に輝く不滅の光ではなく、短く、小さく、何度も点灯する光の一つひとつが人々に希望をもたらし社会を変えていく――。そう信じてやまない財団法人ワグルの理事長のイ・ジンスンさんは、2015年から市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を精力的に続けています。
そんな彼女が、6年間にわたって122人にインタビューし、ハンギョレ新聞で連載したものの中から、12人分のインタビュー記事を収録したのが『あなたが輝いていた時』(文学トンネ)。セウォル号の遺体収容作業に参加し後遺症で亡くなった民間ダイバー、ドラマ『浪漫ドクターキム・サブ』のモデルとなった名外科医、「名もなき人々の語り手」として知られる『たそがれ』(姜信子訳、クオン)の著者、黄晳暎ファンソギョンらが、小さい光であり続けようともがき、苦悩する姿がありありと伝わってきます。翻訳は、同人誌『中くらいの友だち』を主宰し、韓国の社会事情にも詳しいライター・翻訳家の伊東順子さんです。

私はダイバーである前に国民です。国民だから駆けつけたわけで、私の職業、私の技術がその現場で役立つ状況だったから行っただけで(私は)愛国者でも英雄でもないんです……公務員の偉い方たちにお尋ねします。私たちはあの時のことをしっかり覚えています。忘れることができず身体に刻み込まれているのに、社会のリーダーである公務員の皆さんはどうして知らないとか、記憶がないとか……

(ダイバー、キム・グァンホン氏の証言、4.16セウォル号惨事特別調査委員会一次聴聞会、
2015年12月16日)

助けてくれと窓を叩く高校生たちを抱いたままセウォル号が横転したとき、この社会の底にあった腐敗と無能の恥部も露わになった。船に乗っていた304人のうち、ただの一人も救うことができなかった「史上最大の救助作戦」は、「史上最大の裏切りの舞台」となって幕を下ろした。それでも、遺体だけでも引き上げることができたのは、間違いなく民間ダイバーたちの功績だった。事故発生から7月10日の政府による一方的な捜索中断通知を受け取るまで、犠牲者202人の遺体を捜して引き上げたのは、海上警察でも、海軍でもない、25人の民間ダイバーだった。

「ダイバーには100万ウォン〔約10万円〕が支給されたうえで、遺体1体につき500万ウォンのインセンティブが発生する」というミン・ギョンウク青瓦台チョンワデ〔大統領府〕スポークスマンの発言が報道された時も、ダイバーたちは酸素供給の命綱を頼りに、水深40メートルの海中に沈む孤独な遺体を捜して、黒い海に飛び込んでいた。インターネット、新聞、放送も届かないバージ船でカップラーメンを食べながら、うずくまって仮眠を取りながら、生徒たちを捜しに深海に降りていった。日に4、5回、あきらかに潜水の基本ルールを超える回数だった。冷たい水の中から、恐怖に震えて重なり合う遺体を、一人ひとり丁寧に胸に抱いて上がってくる時には、彼らもまた生と死の境を行き来した。

それから2年の時が過ぎた。2016年6月17日、「セウォル号のヒーロー」と呼ばれたダイバー、キム・グァンホンさんが亡くなった状態で家族に発見された。京畿道キョンギド高陽市コヤンシの自宅兼フラワーショップで、まだ小学生の3人の子どもたちが学校に行くために、母親と一緒に家を出ようとしたその時だった。父親は揺すっても起きなかった。健康で愚直な性格だった彼は、38歳の妻と11歳(ラウン)、9歳(ダウン)、7歳(ヒョ)の3人の子どもを残したまま、心臓麻痺でこの世を去った。テーブルの上には前日の夜、彼が子どもたちのために買ってきたチョコレートが3つ残されていた。子どもたちは父親の死をどう思っているのだろう? 勇敢で誇らしい仕事をした父親がペンモク港* の沖合から戻って以来、しだいに廃人のようになっていった理由を、この身勝手で稚拙な世の中に対しての憤りと失望を、それでも最後まで失うことのなかった人間への期待と希望を、子どもたちは理解することができるだろうか?

珍島チンドにある港。セウォル号の沈没現場から最も近く、救助活動のベースキャンプとなった。

ハンギョレ映像ニュース(2016年6月17日)より。キム・グァンホンさんが亡くなられたことを受けて、前年12月16日に開かれた聴聞会におけるキム・グァンホンさんの証言をまとめたもの。

キム・グァンホンの妻、キム・ヘヨンさんに会うのは勇気がいることだった。でも、彼をモデルにしたキム・タクファンの小説『嘘だ』(ブックスピア、2016年、未邦訳)が出版され、妻のフラワーショップの商品券と本をセットにしたパッケージ商品が出たという話を聞いて意を決した。誰かのブログに、妻のフラワーショップ「花の海」(fbada.com)の名刺が載っていた。夫がこの世を去ってから、遺された家族がメディアに登場したことはなかった。インタビューを申し込むのが失礼にならないように、細心の注意を払いながら連絡をしてみた。彼女はためらいながらも、最後には了承してくれた。夫に代わって話したいことがあるようだった。新しく引っ越したという先を訪ねた。ソウル市恩平区ウンピョング吉峴洞キルヒョンドンにある、こじんまりした低層マンションだった。

「こんなふうに太く短く生きたいと言っていました。これは俺のだからと、(花屋を開く時に)どこにも売るなと」

それは高麗人参にも似ていたが、さらに太くてしっかりした根っこが土から突き出していた。夫が特に好きだったというカリホーの鉢を見ながらキム・ヘヨンは言った。子どもたちの遊び道具でいっぱいのベランダには、小さな植木鉢がぎっしり並んでいた。夫が愛してやまなかったという「白紫壇」や、「カラマツソウ」などのあまり馴染みのない野花の名前が書かれた植木鉢も、子どもたちが飛んだり跳ねたりして遊ぶトランポリンの横に置かれていた。

インタビューに応じてくださって、ありがとうございます。これまでメディアは避けておられたと聞いたのですが……お葬式の記事の写真も顔を隠していらっしゃいましたよね。
――今、上の子が思春期なんです。小学4年生の娘です。ものすごく敏感な年頃なので、子どもたちもインターネットにアップされるのは見てしまうので心配したんです。今はかなり落ち着いて、私がインタビューを受けるのを、自分も見たいと言っていました。

え、そうなんですか?
――将来の夢が記者に変わったんだそうです(笑)。社会部の記者になりたいって。

奥の部屋には子どもたち3人の赤ちゃんの時の写真が並んで掛けてあった。夫は子どもをたくさん欲しがった。2歳違いで3人産んでも、もっと欲しいと言って妻にたしなめられた。3人の子どもたちと一緒に写った家族写真の中のキム・グァンホンは、がっしりと骨太な体格をしていて、彼が好きだと言った野花の根っこに似ていた。

高陽市にお住まいかと思ったのですが、フラワーショップだけあちらにあるのですか?
――この家に引っ越して1ヶ月ぐらいです。前の家は野生の草花を育てるハウスの敷地内にあったのですが、夫があんなことになってしまって、そのまま暮らすのはちょっと無理でした。子どもたちが見てなかったらわかりませんが、あの朝、父親が倒れたのを子どもたちも一緒に見てしまったので。女手一つで野花の世話をするのも大変だし。防犯上もよくないし……。

お葬式を済ませてこちらに移られたんですね。
――はい。フラワーガーデンはたたんで、今はインターネットのショップだけしています。

話をしている途中にも、時おり花輪を注文する電話がかかってきた。小さな子どもを置いて母親が外で働くのは難しいので、インターネットで花輪や花籠の注文を仲介する仕事をしていると言った。

もともとフラワーガーデンは奥さんがやっていたのですか?
――二人で一緒にやっていました。夫の父親が野生の草花の農園をしているんです。夫は子どもの頃から花をいじったり、盆栽をいじったりするのが好きで、早くに「蘭の資格」もとったそうです。蘭を育てる専門家の資格です。私は野花については何も知らなくて、一から夫に教えてもらったんです。

ではフラワーガーデンをやろうと言ったのもご主人なんですか?
――3人目の子が生まれて、舅に勧められたんです。もう子どもが3人もいるのだから、海に行って危ない仕事はしないほうがいいと。

それでダイバーの仕事はやめて、フラワーガーデンだけやろうと?
――それは違います。彼が海を捨てられるはずがない(笑)。どうせ冬場は海の仕事もないから、休みの間に自分が好きな花とか盆栽を育てようと思ったみたいです。

妻は海に対する夫の情熱を止めることはできなかった。最初に彼に会ったのも、スキューバダイビングの教室だった。キム・ヘヨンは屋内プールでの教習をなんとか終えた初級の生徒で、夫はすでに10年のキャリアをもつ専門家だった。海が好きで一緒に行くようになり、彼の実益にこだわらない純粋さに惹かれた。2005年、出会ってからちょうど3年という日に二人は結婚した。キム・ヘヨンは26歳、キム・グァンホンは32歳だった。

クレジットカード会社に勤務していた夫が職業潜水士の仕事をすると言った時も、キム・ヘヨンは反対しなかった。レジャー・スポーツのダイバーではなく、海の中で溶接や橋脚の作業をする潜水士の仕事はきついだろうが、経験豊富なダイバーなら危険を避けるのは慣れたものだし、夫の腕は信頼できると思っていた。夫は10年間、職業潜水士の仕事をしながら、潜水病で苦労したことは一度もなかった。セウォル号の遺体収容作業に参加するまでは、そうだった。

ダイバーとしてのキャリアは長いほうだったんですよね?
――20年ぐらいになります。職業潜水士だけでも10年ですから。それ以前からのも合わせれば……。

職業潜水士は一般のダイバーとどう違うのですか?
――レジャー・スポーツとしてダイビングをする皆さんは、潜って魚の写真を撮ったり目で見たりするので、目の前が濁っていて見えないようなところには入らないですよね。全く知らないならともかく、水の怖さを知っている人なら、それがどれほど危険なのかわかるから避けますよ。それに、職業潜水士は水中で溶接作業をしたり、管の設置をしたり、水中橋脚のコアな部分の作業をするのです。はるかに高い熟練度が求められます。

そのぐらいのキャリアだと、1ヶ月の収入はどのくらいなんですか?
――毎月同じではありません。日当制ですから、普通は1日100万ウォンぐらいです。1日に1時間だけ潜ってきても、基本は50万ウォンです。大きな作業になると1ヶ月単位で契約をするんですが、そうやって仕事をしたら、その後に何ヶ月か身体を回復させるための休息期間が必要です。

セウォル号の救助現場では、どんなふうに民間ダイバーの皆さんに日当が支給されたのですか?
――日当をもらおうと思ってやったのではないんです。最初からボランティアとして行ったので、契約書を書いたり、日当を決めたりはしていません。おそらくうちの夫なども、契約書を書かずにやった初めての仕事だったと思います。

では「日当100万ウォン、遺体1体当たりいくら……」、という話がどうして出たんでしょう?
――あれは青瓦台のスポークスマンから先に出てきたんです。夫たち民間ダイバーがいたバージ船の上はインターネットがちゃんとつながらないので、本人たちはそんな話が出ていることも知らなかった。もともと遺体を引き揚げるのにお金をもらうとか、そういうことはなかったんですよ。

|夫を止められなかった理由

セウォル号の捜索現場には、どうして行かれたんですか?
――ちょうどその頃に済州島だったか、大きな工事の契約が決まっていたんです。ずっと前から頑張ってきた長期の事業で、金額が大きいだけでなく、その仕事をすれば次の仕事にもつながる、だからとても大きな仕事だと言っていました。その契約が数日後に迫っていたのに……。

そこに行かずにセウォル号のほうに行ったんですね?
――ずっと電話がかかってきていました。職業潜水士はチームを組んで仕事をします。そもそも数が多くないから、誰かの知り合いの知り合いというふうに、つながっているんです。先に行っていた知り合いのダイバーから連絡があったんです。私はもちろん行くなと止めました。「そこには500人以上の人がいるっていうのに、どうしてあなたが行かなきゃいけないの?」って。そうしたら、「500人いたって実際に潜れる人間は10人もいないと思うよ」と言うんです。海洋警察だってやれないだろうって。

それで行くのを許したんですか?
――何日かソワソワして、何をしていても上の空というか。心ここにあらずといったふうで、仕事も手につかないようでした。ちょうど4月でしたから、フラワーガーデンは忙しい最中だったのですが、気持ちはもう飛んでしまっているから、ここにいても仕方ないなと思って、「それほど行きたいなら行ってもいい」と言ったのです。

喜んでいました?
――そう言ったとたんに、その日のうちにもう行ってしまいました(笑)

大きな契約を投げ捨てて、生業を犠牲にしてまでセウォル号に駆けつけた理由は何なのでしょう?
――子どもが3人ですからね。

え?
――私たちも3人の子どもの親だから。私が最初に夫を止めたのも、子どもが3人もいるのだから危ないことはしてほしくなかった。でも親としてのつらい気持ちは、私たちもセウォル号の遺族も同じなんですよね。最初は子どものために止めたのですが、結局は子どものために行けと言ったんです。

苦労して手に入れた大きな仕事も棒に振って、繁忙期のフラワーガーデンも妻にまかせて、キム・グァンホンは一目散に孟骨水道メンゴルスドをめざした。2014年4月23日、彼が現場に到着した時、彼の予想通り、作業可能なダイバーはわずか7、8人に過ぎず、5月10日過ぎになってやっと25人ほどになった。建前は民・官・軍の合同作戦だったが、「海洋警察の潜水士は船体に進入する能力も、装備もない状態だから」、遺体収容の大部分は全て民間ダイバーの仕事だった。ボンベを背負って行くだけの通路が確保できずに、仕方なく「表面供給式」** の潜水をした。空気を送る命綱が絡まったり、引っかかったりしないように、バージ船にいるスタッフと呼吸を合わせてする高難度の作業であり、熟練の職業潜水士にとっても危険極まりない仕事だった。

** バージ船から水中のダイバーにホースを通して空気を送る方式。

5月6日にイ・グァンウクさんが亡くなる*** という事故もあり、心労が絶えなかったのでは?
――毎日電話で話していたんですが、最初の頃は食事が大変だと言っていました。食べるものはカップラーメンぐらいしかなくて、差し入れとして届いたのが女性用のパンティだったり。必要なものは私が宅配で送ったりしていました。

*** イ・グァンウクさんは「自分にも高校2年生の息子がいるから」と駆けつけた民間ダイバー。セウォル号の捜索中に亡くなった。

体力の消耗も激しい作業でしょうに、食事もちゃんと取れなかったということですか?
――海洋警察の人たちには専用の炊き出しがあったのに、民間ダイバーにはくれなかったそうです。4月30日以降になって、やっとまともな食事がとれるようになったと。後から聞いた話ですが、自分が倒れて死にそうになったのを知っているかと、潜っている途中で息が切れて病院に担ぎ込まれて4日間入院していたと言うんです。退院してそのまま現場復帰したそうなんですが。

民間ダイバーたちはバージ船で24時間待機しながら1、2時間の仮眠をとるだけで、日に4、5回ずつ交代で潜水するか空気を送る命綱を掴んだ。30分作業をしたら6時間休憩をとらなければいけない安全規則を、ベテランのダイバーたちが知らないはずはなかった。キム・グァンホンは「沈んでいる生徒たちを見て、遺族の人たちの哀しみを思ったら、これをやっちゃいけないと知りながらも、潜るしかなかった」(セウォル号惨事真相究明追及各界宣言国民大会 みんなの発言、2015年5月30日)と当時の状況を伝えている。

最初から行かせなきゃよかったと、後悔しませんでしたか?
――後悔していますよ。どうして行けと言ったのか……もういいから帰ってこいと言ったこともあります。同じグループで一緒に行ったダイバーたちも、もう無理だと数日で引き上げて来たのだから、あなたも他の人に任せてくればいいと。

そしたら何と言われました?
――自分がやらなきゃ、誰がやるんだって(笑)。現場にいる仲間はみんな同じ気持ちだと信じていましたね。あそこ(セウォル号の捜索現場)にいた時よりも、家に戻ってきてからの方がつらかったみたいです。言うことをコロコロ変えたり、約束を守らない人たちを見て……。


【後編】に続く

--------------------------------------------------------------------------------------
著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?