ローマ人は「ハンニバルが来たぞ」といって子供をおどかしたか?
ハンニバルがローマ人にとってどれほど脅威だったかが語られるとき、次のような話をよく目にします。
「後々、ローマ人は言うことを聞かない子供を「ハンニバルが来たぞ」といっておどかしたという」
古いものから新しいものまで様々な文献において馴染みのある話であり、さらりと読み流してしまいそうになりますが、どうにも引っかかりを覚えて目を止めてしまいます。
はて、そういえば、古代史料でこの話が記されている箇所に思い当たる節がないな…と。
1 ハンニバル・アド・ポルタス
「ハンニバルが来たぞ」という脅し文句については、そのラテン語での表現は「Hannibal ad portas(門前にハンニバル)」だとする解説をネット上などで見かけます。
この言葉は、主にキケロの著作によって知られています。
cf. Cic. de Finibus 4. 22 「〜, si Hannibal ad portas venisset 〜」 ; Phil. 1. 11 「Hannibal, credo, erat ad portas, 〜」
しかし、キケロは哲学や政治的演説の文脈において危急の事態の例えとして用いているのであり、子供をおどかすといった話はまったく出てきません。
ad portasという表現はリウィウスも歴史叙述において使用していますが、こちらも同様です。
cf. Liv. 21. 16 「〜 velut si iam ad portas hostis esset」
前218年、カルタゴからの使節の帰着とサグントゥムの破壊の知らせを受けて、元老院議員たちが、あたかも敵がローマの門前に迫ったかのような不安に襲われたとする文脈において。
ibid. 23.16 「〜 cum Hannibal ad portas esset」
前216年、ハンニバルがノラの門前に現れたことを述べる文脈において。
その後、第2次ポエニ戦争を題材とした後1世紀のシリウス・イタリクスの叙事詩『ポエニー戦争の歌』においてもad portasという語句は5回用いられており、そのうち3回はハンニバルに関連しています。
cf. Stocks, p.9 注7
ad portasという言い回しは、ローマ文学における慣用句として使われるようになっていたのでしょう。
cf. Horsfall, (A), p.138; Halkin, p.417; Otto, p.158; Mayor, 121f.; Pearson, et al., p.194
また、ad portasという表現ではないものの、「城門(porta)」という語がハンニバルの脅威と関連づけられた表現は多く見られます。
cf. Liv. 26. 41. 12 「〜 et uisum prope in portis uictorem Hannibalem」
Juv. Sat. 10. 155 「〜 acti inquit nihil est, nisi Poeno milite portas frangimus et media uexillum pono Subura」
Oros. 5. 24. 5 「〜 quam sub Hannibale circa portas fremente trepidauerat, 〜」
しかし、いずれにせよ子供をおどかすのにこの言葉が用いられたという記述はないのです。
歴史的に言えば、これらの表現は主に前211年にハンニバルがローマ市の付近まで迫った際の記憶に由来します。
ローマ軍の攻囲下にあったカプアを直接救援することができなかったハンニバルは、突如、反対にローマ市に向かって進軍しました。
結局、カプア解囲もローマ市攻撃もかなわなかったものの、第2次ポエニ戦争中、ハンニバルの軍勢がローマ市に最も接近した瞬間です。
現代の研究者たちの見解では、このローマ進撃は軍事的にはさほどインパクトを与えなかったとするものが多いのですが、その歴史的評価とは不釣り合いに、文学においてはローマ時代全体を通じて繰り返し言及されるテーマとなりました。
つまり、ローマ人の記憶に強烈な印象を刻んだ神話的な出来事として語り継がれたと言えるでしょう。
cf. Kubler
ローマ市内の不安と恐怖の大きさを物語る伝承が数多く残されています。
子供心にも影響を与えたことでしょう。
例えば、リウィウス(26. 9)は、ローマ中の婦人たちが髪を振り乱して神々の社や祭壇に駆け込み、ローマ市を救い、母子を護りたまえと祈ったと記しています。
cf. App. Hann. 39 女性と子供の動員(矢石の搬送)について; Juv. Sat. 6. 287-91 古の女性の美徳について。
ハンニバルの撤退は、幸運、神々の加護によるものと考えられていました。
cf. Kubler; Liv. 26. 8. 5, 11. 2-4会戦を妨げた2度の雨雹と神意の解釈、幸運(機会)について。
プロペルティウス(3. 3. 9-11)はラレス神によってハンニバルがローマから追われたとエンニウスが歌ったと、ウァロ(Men. 213ff.)はトゥタヌス(ヘルクルス?)が追い払ったと伝えています。
cf. Skutsch, p.471
ハンニバルが反転したカペナ門外の地点にはレディクルスの社が建立されました。
cf. Paulus Diaconus, Excerpta ex libris Pompei Festi de verborum significatu. 「Rediculi fanum extra portam Capenam fuit, quia accedens ad Urbem Hannibal ex eo loco redierit quibusdam perterritus visis」
ローマの歴史におけるハンニバルの立ち位置は、特別なものになりました。
プリニウス(NH. 34. 15(32))は、ローマ市内の3箇所にハンニバルの像があることを記した後、彼は外敵の中でその城壁内に槍を投げ込んだ唯一の存在であると付言しています。
cf. キケロ(de Finibus 4.22)のad portasは、槍を城壁越しに投げ込んだ際のこと。「〜 si Hannibal ad portas venisset murumque iaculo traiecisset, 〜」
さらに、ハンニバル襲来に対する恐怖の記憶は、前211年のローマ進撃という出来事を超えて、カンナエの戦いの直後における恐怖や不安などとも融合していったのかもしれません。
セネカ(Sen. Ira. 2. 2. 5)は、次のように述べています。
時代を下るにつれ、ハンニバルの名前は、ローマ人にとって恐怖を連想させる言葉として用いられるようになります。
ホラティウス(Carm. 3. 6. 36)は「dirus Hannibal(恐ろしいハンニバル)」と歌い、その語句は文学的表現に溶け込んでいきました。
修辞学者のクインティリアヌス(8. 2. 9)は語句の適切な用例の一つとして挙げ、ユウェナリス(Sat. 7. 161)は生徒のための修辞学の課題として言及しています。
cf. Horsfall, (A), p.138; Stocks, p.8
こうしてみると、ローマ人の家庭においてハンニバルの名前が脅し文句に使われていても不思議ではないと考えたくなります。
しかしながら、その明確な史料が存在しないということは認識しておく必要があるでしょう。
2 ハンニバル・ザ・ブギーマン
Hannibal ad portasという言葉を使ったかどうかはともかく、ハンニバルの名前で子供をおどかしたという話自体は欧米圏で普及しています。
実例は枚挙にいとまがありませんが、典型的なものとしてErnle Bradfordのハンニバル伝の叙述を例にとってみましょう。
Bradfordはユウェナリス『風刺詩』の記述に言及したうえで、次のように記しています。
Bradfordは明確な出典を記してはいませんが、該当するユウェナリスの箇所とその繋がりの全体(Sat. 10. 147-167)を見渡してもそのような話は含まれていません。
上述のとおり、ad portasではありませんがportas「城門」の語は使用されています(Sat. 10. 155)
しかし、これは「私がポエニー人の軍隊でローマの城門を粉砕し、スブーラ街の真っ只中に、わが司令塔旗を打ち立てない限り、私は何も成し遂げたことにはならないのだ」(國原吉之助 訳, p.245)というハンニバルの言葉に含まれるものであり、文脈が異なります。
やはり、明確な典拠が示されてはいないのです。
ここで、他の文献を調べていくと一つの事実が浮かび上がります。
その多くは「言うことを聞かない子供をおどかした」と直接的に表現しているのではなく、「ハンニバルはローマ人にとってのブギーマン(bogeyman)になった」という述べ方をしているのです。
ブギーマンとは、英語で子供が怖がる幽霊のような存在を意味します。
英語圏では、親は言うことを聞かない子供を「ブギーマンがさらうぞ」と言っておどかすのだそうです。
古典学などの専門的文献では特に、著者による比喩的説明であるブギーマンという言葉を用いて記されている事例が多いように思われます。
網羅することは不可能ですが、目についた例を挙げておきます。
その多くが、Bradfordと同じくユウェナリス『風刺詩』との関連で言及しています。
これは、キケロのad portasやホラティウスのdirus Hannibalに比べて、ユウェナリスのハンニバルが現実的な恐怖を喚起することのない他愛のない修辞学の題材でしかない点を取り上げているからです。
主に、ハンニバルの名前は子供のお化けのような扱いにまでなったと説明する文脈で用いられています。
ユウェナリスは、修辞学を習う生徒たちがハンニバルに関する課題を与えられ、カンナエの戦いの後に彼が取るべき戦略を発表することや(Sat. 7. 160-64)、アルプス越えが子供の胸を躍らせ、演説練習の題材となること(ibid. 10. 166f.)を風刺的に歌っています。
この後者の詩句(「〜ut pueris placeas et declamatio fias」)は、子供向けの話という意味では子供をおどかす話に近いとも言えるかもしれません。
Pomeroy(2010, p.28 注5)は、「so you can become a fine tale for children and a topic for debates」と訳しています。
しかし、placeoは「喜ばせる」「満足させる」という意味であり、怖がらせるとは解釈できません。
例えば、國原吉之助先生(p.246)は、「それも汝が修辞学校の児童たちを小躍りさせ、彼らの演説練習のための題材となるためにだ」と訳しています。
たしかに、ホラティウスに由来する「dirus Hannibal(恐ろしいハンニバル)」という慣用句が修辞学の課題として生徒の頭を一杯にしているさまからは、かつて幼子のときに両親から聞いた怖いお化けが、物心がつき修辞学を学ぶ年頃の子供にとっては退屈な、あるいは面白い物語の登場人物でしかない様子を容易に連想することができるでしょう。
cf. Sat. 7. 161 「〜 quaque die miserum dirus caput Hannibal inplet, 〜」
とはいえ、その連想はあくまでも現代の読者が想像を膨らませた結果であり、ユウェナリスのテクストが明確に語っているわけではありません。
従って、「ハンニバルはローマ人にとってのブギーマンになったという比喩的な説明がなされることがある」という理解が適切ではないでしょうか。
ブギーマンという単語を省いて意味を直訳調に翻案すると「ローマ人は言うことを聞かない子供をハンニバルの名前でおどかした」という文章になりますが、これだと微妙に勘違いされそうな表現になってしまうと言えるでしょう。
3 噂をすれば影がさす
さて、それでは、ユウェナリスをはじめ古代史料からは子供をおどかす存在だとは直接には読み取れないにもかかわらず、なぜハンニバルをブギーマンと形容するのでしょうか?
注目されるのは、N. Horsfall((A), p.183; ibid., (B))が1973年に発表した次のホラティウスの詩句の解釈に関する説です。
Epod. 16. 8 「〜 parentibusque abominatus Hannibal」
彼は、平凡な「先祖から忌み嫌われたハンニバル〜」という解釈を退けます。
parentesを「先祖」ではなく「両親」、それもハンニバル戦争で亡くなった人々の親達を指していると考えました。
さらに、単にハンニバルを「(遺された)両親たちに忌み嫌われている」としても平板で面白くないとして、abominatusにも再解釈を提案しています。
前211年のローマ進撃の記憶が恐ろしいハンニバルという認識を長く伝えていたことを踏まえて、ハンニバルの名前を口にすることで親が子供から不吉な予兆を遠ざける魔除けのような意味合いが生まれたのではないか、と主張しました。
ここで彼は、ブギーマンという言葉を使って説明しています。
Horsfallの説は、ハンニバルが子供をおどかすためのお化けとなったという説明に対して、ある程度の学術的な根拠を与えるものとなったのかもしれません。
Horsfallは、自説の根拠の一つとして、T. Williamsが主張した後4世紀のアエリウス・ドナトゥスによるテレンティウスの喜劇への注釈に対する解釈を挙げています。
テレンティウスの喜劇『兄弟』に、「lupus in fabula(話題の狼)」という諺めいた言葉が出てきます(Ter.Ad.537)
狼に擬えた人物の話をしていると本人が現れた、という驚きを表現した言葉であり、日本語では「噂をすれば影がさす」の意味に当たります。
ドナトゥスの注釈は、カプアから近づいて来て寝室に入り込む狼の話を子守りが子供に物語って怖がらせたことに由来するとした一説を伝えています。
Williams(66f.)は唐突なカプアという地名を誤記とする説に反対して、当時の子守唄に由来するのであり、狼とはハンニバルのローマ進撃の記憶を意味すると主張しました。
しかしながら、Williamsの説は推測を重ねたものであり、確たる根拠があるとまでは言えないように思います。
例えば、H. D. Jocelynは、Williamsに反論してまったく異なる解釈を主張しています。
Jocelyn(p.91)はアテルラナ劇に由来するものだと考え、ペトロニウス『サテュリコン』(61f.)に登場する狼男に近い存在のことを指しているのであり、行き先はローマではなくオスク人都市近辺の小さな町だと推測しています。
HorsfallはJocelynがWilliams説に疑問を呈していることは注記していますが、特に検討はしていません。
もっとも、史料の乏しさからくる性質上、Jocelynの解釈も推測の一つにすぎないことは否めません。
結局のところ、「カプアからの狼」の解釈を確たる根拠とするのは難しいと考えたほうがよいのではないでしょうか。
Horsfallはプリニウスによる凶兆をもたらすabominatusの用例なども示していますが、彼の説をもってハンニバルの名前が子供をおどかす言葉として使われていたと言えるほどの説得力はないと思います。
ただし、Horsfall自身が述べているとおり、ハンニバルは「一種の民間に流布したブギーマンだった可能性があるように思われる」というくらいであればおかしくはないでしょう。
子供を楽しませるだけではなく怖がらせる存在でもあったのだろう、とは言えるのかもしれません。
4 幽霊の正体見たり枯れ尾花?
1973年に発表されたHorsfallの説は、その後の研究文献などが好んでハンニバル≒ブギーマンの比喩を用いる下地の一つになったのではないか、とは思います。
では、Horsfallは、この仮説においてブギーマンという言葉を比喩的に用いるという着想を白紙の状態から導き出したのでしょうか?
Horsfallはハンニバルがブギーマンだったのではないかと示唆するに当たり、T. E. Pageによるdirus Hannibal(Carm. 2. 12. 2)についての注釈から次の一文を引用しています。
また、Horsfallの議論において参照の指示がある文献には、次のような記述が見られます。
いずれも、Horsfallが参照した文献は直接ブギーマンという言葉は使用してはいません。
しかしながら、Horsfallの論考のはるか以前から、英語の著述においてハンニバルをブギーマンと呼んだ記述は存在しています。
私が確認できた範囲で最も古い記述は、1899年刊行の「THE EDUCATIONAL TIMES」という雑誌に掲載された書評にまで遡ります。
書評の対象となっている1899年刊行のW. W. How『Hannibal and the Great War between Rome and Carthage』には子供をおどかすためのブギーマンという記述は見当たらないようですので、上記の表現は評者によるものと思われます。
cf. ただし、How(p.113)は前211年のローマ進撃についてモムゼンに類する次のような記述はしています。
さらに、英語圏以外の西欧各国語においても、ブギーマンに類する言葉をもってハンニバルを形容している事例が確認できます。
フランス語では、ブギーマンに相当するcroque-mitaineという言葉が使用されています。
例えば、E. Hennebertは1891年に刊行した浩瀚なハンニバル伝の中で次のように述べています。
ドイツ語ではBuhmann、Schreckgespenstといった言葉となります。
ローマ史や古典に関する文章ではありませんが、19世紀の以下の文献において比喩的に用いられているのが確認できました。
イタリアでは、ハンニバルの研究で知られるG. Brizziが近著でbabauという語を使用しています。
また、19世紀においては、案山子やお化けの意味を持つspauracchioの語を用いた言い回しが確認できます。
1876年刊行のF. Pellegrini編『Storia Antica per gl' Istituti Scolastici Femminili』には、次のような表現があります。
また、1863年刊行のモムゼン『ローマの歴史』のイタリア語訳は、ドイツ語原文では「ローマ人を恐れさせた男」として文章で表現されている箇所を「ローマ人のspauracchio」という名詞によって表現しています。
さらに遡ると、1859年刊行の古典を喩えに使った文章において、次のような用例があります。
したがって、Horsfallがブギーマンという言葉を持ち出したり、Williamsが「カプアからの狼」という表現から子守唄やハンニバルを連想したことは、まったくの白紙の状態から学問的検討の末にたどり着いた表現や仮説であるとは言い難いのではないかという気がします。
むしろ、古くから西欧各国で受け継がれてきたブギーマンとしてのハンニバルのイメージが無意識にローマ文学の読解における学術的な仮説に投影され、それを根拠づけるように作用しているのではないでしょうか。
もちろん、彼らの仮説における学術的な議論の過程や結論を否定するわけではありませんし、私にはそんな能力はありません。
しかしながら、過去何世紀にもわたりギリシア・ローマの古典に親しみ、その探究から自己の社会そのものに糧を得てきた結果、西欧人の古典解釈は、単なる過去の史料との対話ではなく、その時々の自分たちの社会や文化と相互に深く影響し合い、混然一体となった独自の伝統を有しているように常々感じております。
むしろ、全くその伝統の外部に位置する日本人のほうが、中世〜近代における西欧文明の影響を受けずに、新鮮な古典解釈を提案できる可能性さえあるように思うほどです。
例えば、欧米の研究では、ギリシア・ローマ史のある事象を検討するに当たって西欧の中世〜近代における事例のみと比較することが多いように見受けられます。
この場合、比較対象としている事例や背景となる社会文化自体が当時の古典研究の影響を受けて形成されている側面があるため異文化のように比較できるものではないかもしれないという点をあまり意識していないように感じられることがあります。
自分たちの人生やお伽話のイメージを古代人にごく自然に投影する感覚は、日本人が外国である中国の漢文古典の世界に接するときとは、また少し違ったところがあるように思うのです。
そうした意味では、ブギーマンとしてのハンニバルのイメージは格好の検討材料のような気がします。
「ローマ人は「ハンニバルが来たぞ」といって子供をおどかした」という欧米の文献からの又聞きを日本語で再生産していくだけではなく、好事的な掘り下げもまたギリシア・ローマの古典を読む楽しみに繋がるのではないでしょうか。
……さて、長々と述べてまいりましたが、所詮は素人の戯言です。「いや、この話は古典の何処そこに明記されているし、誰某がとっくに研究しているよ」ということかもしれません(笑)
ご存知の方がいらしたら、ぜひお知らせいただけましたら幸いです。
知識が深まることになれば、それこそが望外の喜びです。
5 参考文献
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(A)
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(B)
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(No.181. p.1541)
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