管矢と弓戦の話 〜ビザンツ帝国と中東〜


1 十字軍と管矢

1250年、ルイ9世の下で第7回十字軍に従軍したジャン・ド・ジョアンヴィルがエジプトのマンスーラの戦いで体験した逸話は、当時の弓矢の威力を語る際によく引き合いに出されます。

多数の矢を射かけられた彼は、偶然みつけたサラセン人のギャンベゾンを盾にしたこともあり、彼自身は5箇所、馬は15箇所の傷を負いながらも大事には至りませんでした。

その夜、彼と騎士たちは傷のせいでホーバーク(鎖帷子)を着ることができず、敵襲に備えて王に助けを求めざるをえなくなりました。

とはいえ、矢は鎖帷子や内着を完全に貫いて十字軍騎士たちを戦闘不能にするほどの怪我を負わせることは出来なかったのです。

しかしながら、サラセン人やトルコ人の弓矢の威力を考察するに当たって、この逸話を単純に一般化できるかというと少し立ち止まって考えてみる必要があるかもしれません。

ジョアンヴィルは、この「矢」を「pylés」と表現しています。

Godefroyの古仏語辞書(6巻p.158)によると「pylés」は「pilet」の異記であり、ダーツ、投槍、太矢といった意味があるようです。

つまり、弓矢というと連想するような通常の長矢ではなかったのかもしれません。

R. Mitchell(2006, p.24)は、これは管矢(guided arrow)だったのかもしれないと推測しています。

管矢とは、筒状のガイドレールを用いて通常は弓につがえることのできない非常に短い矢を放つ方法です。

軽い短矢は高初速で運動エネルギーが高く、鎖帷子を引き裂くことはできますが、浅い刺傷でストップするかもしれません。

よって、運動量が大きく貫通力に優れる一般的な重い長矢に比べて装甲貫通力が低かったのではないかというのです。

cf. Mitchell, 2006, 22f.

多数の矢が上衣や鎖帷子に刺さりハリネズミのようになったままでいる十字軍兵士の描写というのは、こうした短矢がギャンベゾンで止まったものかもしれないと推察しています。

長矢なら、折れるか邪魔なので取り除くだろうとしています。

cf. Mitchell, 2006, p.24注20; p.28

W.F. Paterson(83f.)も、アルスフの戦いなどで十字軍方の鎧にイスラム勢の矢が効きにくかったのは、弓の張力が弱かったからではなく弓兵の応射により遠矢を強いられたのか管矢だったのかもしれないと述べています。

ジョアンヴィルの逸話について、この「pylés」をE. Wedgwoodは「fire darts(火短矢)」と英訳しています。

味方が3度「ギリシア火(le feu gregois)」を投げつけられたという話に続いて逸れ矢がジョアンヴィルを襲ったという文脈から火矢だと解釈したのかもしれませんが、「ギリシア火の容器(le pot de gregoiz)」を味方がバックラーで受け止めたという表現からすると、ギリシア火の他に多数の短矢も射かけられていたと考えたほうが自然のように思います。

Arab Archery(略記AA, 48)によれば、通常の火矢は管矢を使いません。

管矢で「熱針(hot needle)」を放つこともできるそうですが、ギリシア火のような燃焼効果があるものかは不明です。

他の書物などでは、この箇所を引用する際に単にdartsとしていることも多いようです。

eg. Strickland & Hardy, p.101

2 管矢の特徴と起源


管矢の特長としては、次のように言われています。

①矢が短く軽い
 ・携行数が多い
 ・矢柄が反らず、ふらつかない
 ・装甲貫通力が低い?
②長矢と同じ引幅
 ・強射・高初速・低伸弾道
 ・視認されにくい
 ・回避しにくい
③長射程
④敵が矢を再利用できない

cf. Saracen Arhery(略記SA), 28f.; pp.145-151; AA, 48; Alofs, III. 148f.; Nishimura, 423f.

E. Alofs(III. 148f.)によると、管矢は中東において徒歩での戦闘に典型的な装備でした。

最初期の記録は後6世紀末のビザンツ帝国に遡り、ストラテギコン(12B.5)に記されているソレナリオン(σωληνάριον)という歩兵用装備を管矢とする説が有力です。

cf. Kolias, 242ff.; Nishimura, pp.422-429

また、さらに遡って4世紀末〜5世紀初頃のウェゲティウス(4.22)が記述しているarcuballistaを弓幹固定式の管矢に、manuballistaを使用時に管を手で保持する機動式の管矢に推定する説もあります。

cf. Pétrin, 276ff.

レオン6世のタクティカ、シュロゲ・タクティコルムやニケフォロス・ウラノスのタクティカなど9世紀前後の文献にも単なる再録ではない記述が見られるため、管矢は継続して使われていたようです。

Codex Ambrosianus Graecusは、木製の筒状容器に小さい矢を込めて弓で放つという基本構造を記しています。

その矢を示す語は「ハエ」や「ネズミ」といった意味合いだと解釈する説があり、いずれにせよ小さく素早い矢の特徴を表しているようです。

cf. Nishimura, p.428; Kolias, p.242; contra. Pétrin, p.276

また、12〜15世紀のアラブ人の文献になると、さまざまな管矢の形状と使用する短矢の種類が詳細に記されています。

矢の長さは6.5cm〜38cmほどであり、長いものでも通常の長矢の半分ほどしかありません。

初期のアラブ人の文献には、ビザンツの記録にはない、小矢を4〜5本込めて一度に放つという射法が記されています。

後代の文献になると長めの短矢が重視されており、重装甲の十字軍兵士との戦いの経験から貫通力が求められるようになったのかもしれません。

cf. Nishimura, p.429

長めの短矢になると、重い鏃と固い矢柄を使用するので31g前後になります。

Saracen Archery(略記SA)の解説によると、平均的な射手にとって強めの100ratl(約40kg)弓で使用する通常の長矢が37.5g程度ですので、それに比べても6.5gほどしか軽くありません。

cf. SA, 29ff., p.149; Nishimura, 428f.; Paterson, 85f.

ただし、J. M. Smith(251f.)のように、中東の戦闘用の長矢をより重く評価する見解もあります。

彼は、たいてい1.5オンス(42g)以下であり2オンス(56g)を超えないとしています。

cf. Nicolle, 2017, (10)

矢の重さは射手が用いる弓の張力や用途に応じて変わりますので一概には言えませんが、Arab Archery(略記AA. 40)も戦闘用の長矢は重めの43.7g〜58.3g程度のものを使用するべきだとしています。

M. Junkelmann(p.167)によると一般的な複合弓に使用する戦闘用の長矢は20〜90g程度であり、30〜50gが最も使いやすいといいます。

管矢に用いられる短矢は、種類により差はあるにせよ、やはり軽量であることが分かります。

Arab Archery(略記AA, 43)では、管矢の起源に2つの説を挙げています。

【説①】
イスラム教徒が、通常の長矢だと敵方のトルコ人に拾って再利用されてしまうので管矢を工夫した。

【説②】
ペルシア人がトルコ人の盾を射抜けないので「斜め立ち」や弓の外側から狙う射法を採用した。その結果、長い矢を使用するようになり、引き分けることができない老人や若者のために管矢を工夫した。
(※因果関係は諸説に分かれます)

また、トルコ起源とする説もあります。

したがって、現代の研究でも7世紀中頃のイランで発明されたとする見解があります。

cf. Nicolle, vol.1, p.139

しかし、これらはビザンツの記録より端緒自体が新しいため、管矢の発明はビザンツに由来するとする研究のほうが説得力があるように思います。

cf. Nishimura, 424f.; Kolias, p.244

注目すべき論点は、イラン起源説の根拠として、弓幹と管矢の管を左手で保持するためには、矢を弓幹の右につがえる親指(蒙古)式の取懸けを使用している地域が発祥であるはずだとD. Nicolle(vol.1, p.140)が主張している点です。

親指式とは、親指のつけ根に弓弦を引っかけて保持する取り懸けの方式です。

管矢の形状にはさまざまな種類があったようです(cf. SA, 149ff. ; AA, 48)が、私見では必ずしも弓幹と一緒に左手の「指で」管をつかむ方法、すなわち右つがえが必須ではなかったように思います。

管矢の再現画像・動画をみると、右つがえであっても管の前方は左手の親指の上に置いているだけのタイプしか見当たりません。

しかしながら、漠然とした印象論であるとはいえ、管矢の使用地域が中近東から東アジアに至る親指式の分布と重なっているというNicolleの指摘は興味深いと思います。

Nicolleは単純に「親指式=アジア」という理解で述べていますが、ビザンツの弓術は人差指、中指、薬指の3本の指で弓弦を引く地中海式に加えて親指式を導入していたとする解釈が通用しており、その議論に対する間接的な補強材料にもなるからです。

そして、管矢の起源がローマ・ビザンツにあるとしてもおかしくないことに繋がります。

3 管矢による弓戦のあり方


さて、それでは、なぜ管矢はビザンツより西のヨーロッパでは用いられなかったのでしょうか?

少なくとも、弓術の差異を「原因」とする技術的決定論とは無関係だと考えるほうが自然でしょう。

むしろ、ビザンツから中東にかけての戦争形態が、管矢の特徴が合致するような弓戦のスタイルを伴うものであったと考えるほうが妥当だと思います。

中世におけるビザンツと中東の戦争術は、共に後期ローマ帝国やササン朝ペルシアなどの古代国家以来の連続した伝統を引き継いでおり、互いに戦火を交えるだけでなく中央アジアからの遊牧民からの侵攻にさらされるなど、共通の土壌に立っていました。

その軍勢が用いる戦術体系の中で弓戦に求められる役割があり、それに適した武具として管矢が使われていたのでしょう。

よって、管矢だから短矢であり、したがって貫通力が足りなかったという説明では順序が逆のような気がします。

①射程距離から考えられる管矢の運用法

管矢の特徴から要求性能や運用思想を考える場合、まず射程距離に注目することができます。

ストラテギコン(12B.5)は、管矢は遠距離から放つことができるとしています。

後代のイスラム世界においてもこの特徴は変わらなかったと思われます。

1097年のドリュラエウムの戦いで十字軍兵士は四方から短矢・投槍を受け、驚異的な距離から矢を射かけられたとされており、サラセンの遠矢に強い印象を受けた様子が窺えます。

M. Strickland & R. Hardy(p.98)は、管矢が遠距離からの擾乱射撃(harassing barrage)に使われたと推測しています。

管矢に求められているのは射程距離の長さであることが分かりますが、通常の弓でも軽い長矢を使用すれば最大射程は十分に長いため、「有効射程」の観点から考える必要があるでしょう。

高初速で弾道が低伸する短矢は、測距と偏差射撃の負担が少ないため照準しやすく、有効射程の評価において重要な命中率の面で優位に立てる可能性があります。

cf. SA, p.29; 141f.

大きな矢羽をもつ重い長矢は貫通力を維持できる距離が伸び、矢の飛行が安定しますが、矢速の遅さはハンデになります。

単純な優劣ではなく、敵兵の集団の中に射込めばよいのか、より精度の高い狙撃を望むのかにより好みが分かれるでしょう。

装甲貫通力を重視するのであれば、近距離では矢は重い鏃を使用したほうが効果的です。

しかし、遠距離ではトップヘビーだと飛行中にぐらついてしまうようです。

cf. SA, 25f.; AA, 40

長い矢柄でバランスをとり、飛行を安定させる大きな矢羽をつけるとすると、矢はさらに重くなります。

cf. Mitchell, 2006, 21f.

また、大きな矢羽は空気抵抗を高める要因にもなります。

cf. Junkelmann, p.167

つまり、少なくとも最大射程は短くなります。

したがって、軽く短い矢が前提となる管矢の有効射程は、基本的には非装甲目標への効力を念頭に置いていると考えられます。

具体的には、遠距離であっても敵兵の非/軽装甲部分や乗馬を損傷させる威力が残っていればよいということになるのではないでしょうか。

cf. 拙稿「ビザンツ帝国の弓術とニケフォロス・ブリュエンニオスのアポロンの弓」「6 弓戦における使い分け」

https://note.com/cuniculicavum00/n/n4364b7de3c51

アンナ・コムネナ『アレクシアス』(10.9.7; 13.8.1)には、胸甲、鎖帷子、凧型盾を装備したケルト(フランク)人は矢に対して不死身に近いため、馬を狙うよう指示したという記述が出てきます。ところが、同じ『アレクシアス』(10.9.9)には、夫ニケフォロスの放った矢がラテン人の長盾を貫通して胸甲を切り裂き、脇腹深くに突き刺さったという記述も見られるのです。本稿の主題とする箇所から続く場面です。Mitchell(2006, p.24)は、『ストラテギコン』(1.2)が騎兵弓について各人の引くことができる張力の限度よりも弱めの弓を装備するとしていることを傍証として、この最初の記述をビザンツ兵の弓勢が西方の鎖帷子に対して威力不足だったことを示すと考えています。少し弱めの弓を使うようにとの推奨は9世紀末〜10世紀初頭頃のレオン6世の『タクティカ』(6. 2)にも見られるため、ビザンツ時代を通じた一般的な認識だったと思われます。しかし、『ストラテギコン』(1.2)の記述は、騎兵の装備について述べたくだりであることに注意する必要があります。実のところ、そもそも馬上で用いる弓は歩射の場合に比べて少し張力が低いのが一般的です。不安定な足場で、馬を制御しつつ射る必要があるからです。cf. Paterson, p.85; Alofs, III, p.146; Loades, 2016, p.72; Ureche, 2013, p.189; Dixon et al., kindle Ed., p.53; Goldsworthy, p.184 さらに、徒歩の場合とは異なり、標的に向かって最適な身体の向きをとれるとは限りません。例えば、自由に下半身の向きを変えられないため、馬首の方向に射るときには、胸と両腕を開いて肩甲骨を寄せるように目一杯に背筋で引き絞ることはできないのではないでしょうか。また、弓騎兵同士の戦闘は、射ることのできる弓手(左手)側に敵を捉えつつ相手の死角となる右後方に回り込もうとするため、互いに反時計回りに円を描いた動きをとることが多くなります。軍勢の側面や離脱する部隊の後方を護るために、一部の兵士には弓を右手に持ち替えても使用できる技量が望まれました。cf. Alofs, II, p.18, p.22; Junkelmann, p.170 つまり、私見ですが、馬を狙うという戦術自体が一時的な便法ではなく伝統的なビザンツ帝国の弓戦思想に則った発想であり、弓矢の絶対的な威力不足を示すものではないように思われます。レオン6世の『タクティカ』(18.23)も、サラセン人などの馬を狙うことを推奨しています。アンナ・コムネナが戦術書に造詣をもっていたかどうかには議論がありますが、少なくともある人物を「アイリアノスの戦術書に無知ではなかった」(15.3.6)と形容しています。レオン6世のタクティカはアイリアノスを参照していることが知られています。同じイラン的な伝統に基づく中東の騎兵戦闘においても、相手が騎槍で攻撃してくるときは、距離を保ち、より大きな目標である馬を狙うのが賢明だと考えられていました。cf. Alofs, II, p.23; AA 45 Strickland & Hardy(p.101)は、12世紀の間中、西欧人の防具は進歩を続けており、十字軍兵士に対するサラセンの矢の脅威は減少していったと考えていますが、貴重な乗馬への損害は悩みの種であったと述べています。弓騎兵を典型とするような、流動性が高く射撃機会も限られる弓戦においては、軽装甲の人馬へのダメージや撹乱・妨害を狙った、遠距離からの軽矢による濃密な「速射」(=panjīkan)が重視されました。矢筒で携行する矢の多くは、この軽矢でした。しかし、それしか手札がなかったというわけではありません。鎧通しの矢を用い、距離を詰め、あるいは思い切って下馬して足元を固め、力強い「強射」(=nīkan)を浴びせることもできたのです。この場合、弓矢は個人の技量差が非常に大きいものですので、騎兵弓の張力が弱めだというのは、あくまでも相対的な基準にしかなりません。

さらに言えば、矢に一撃で敵兵を倒す威力を期待しているとは限りません。

T. G. Kolias(221f.)は、ビザンツの記録に記された矢傷の事例は首や目が多いことから致命傷の期待値は少ないとして、痛みや出血により受傷者が行動不能になる効果を重視しています。

矢による致命傷とは「ゆっくりとした苦痛を伴う死をもたらす」のだと。

一般的に、小さくても刃物による刺傷は致命傷になりやすいとされています。

ギャンベゾンやアケトンのような布製の内着と鎖帷子の矢に対する複合的防御力を再検討したD. Jones(2020, 164ff.)は、現代における刃物刺突効果の判断基準を参考にして、矢が体内に40mm以上侵入すれば重傷と評価しています。

古代においても、ウェゲティウス(1. 12)が剣は刃よりも切先を使うよう推奨し、2ウンキア(49mm)人体に食い込めば致命傷となるからだと述べています。

ただし、矢が落下して肋骨の上から侵入する場合にはより深い傷が必要になります。

cf. Strickland & Hardy, p26

しかしながら、実際的な戦場における矢傷の効果は貫通したかどうかだけで判断するわけにはいきません。

法医学・病理学的観点からの古代の戦傷に関する研究では、失血、肋骨・鎖骨などの骨折、目・動脈・神経・腱への受傷、打撲、昏倒なども兵士の戦闘能力を失わせると指摘されています。

また、薄い装甲やフレキシブルな鎖帷子などは、貫通を防いだ場合でも、変形して体内に侵入し怪我を負わせるかもしれません。

鎧兜といえども武器の運動エネルギーを単純に打ち消すことはできないため、程度の差はあれ、鋭器損傷を打撲傷に変換して和らげることになります。

cf. James, 2009

したがって、管矢が用いられるような弓戦では、なるべく遠距離から人馬に負傷の脅威を与えることが優先されていたのではないでしょうか。

②携行する矢の数から考えられる管矢の運用法

史料から読み取れるもう一つの管矢の特徴は、携行できる矢数の多さです。

ストラテギコン(12B.5)は、軽装歩兵は30本か40本の矢を収めた大きい矢筒、管矢と短矢入りの小さい矢筒はもちろんのこと、小盾も持つべきだと述べています。

ほぼ同様の記述が、後代のレオン6世のタクティカ(6.22)にも再掲されています。

また、プラエケプタ・ミリタリア(2.7-19)は徒歩弓兵の装備として弓2張と矢筒2つを挙げ、それぞれ40本と60本の矢を収納するよう求めています。

60本入りの矢筒が管矢用であるとすれば(cf. Kolias, p.244)、携行可能な矢数が非常に多いことが裏付けられます。

つまり、多くの矢を携行して戦いに使用できることが有利だと考えられていたことを示しているのでしょう。

4 まとめ


管矢を用いる弓戦は、なるべく遠距離から人馬に負傷の脅威を与える矢を数多く放つことを重視していたように思われます。

これは、ビザンツ帝国や中東における装甲弓騎兵を中心とした流動的な戦闘様式において、主兵である騎兵を支援する役割を持った歩兵のための装備として理に適っています。

cf. 拙稿「中東における装甲弓騎兵を中心とした戦闘様式について 〜Eduard Alofsによる「イラン的伝統」モデルの紹介〜」

このような戦いにおいては、矢は必ずしも敵兵を戦闘不能にするような強力な一撃を望むものではなく、有利な状況を作為するための圧力を加える効果も重視されていたでしょう。

十字軍の兵士たちはハリネズミのように身体に矢を立たせながらもサラセン人やトルコ人を敗走させ、あるいは撃退することができました。

しかし、東方における流動的な戦闘様式においては戦闘の打ち切りや退却は敗北を認識するものではなかったかもしれません。

ジョアンヴィルと仲間たちは矢に怯むことなく敵兵を撃退しましたが、傷の痛みはじわじわと体力を消耗させていきます。

矢は「ゆっくりとした苦痛を伴う死をもたらす」存在でした。

戦いは、翌日から先もまだまだ続くのです。

ジョアンヴィルは運良く生きて故郷に戻ることができましたが、東方の短矢の脅威は決して侮るべきものではなかったことでしょう。

5 余談 〜クロスボウと管矢〜


管矢はクロスボウの原初形態ではないかと言われることがあります。

個人が携帯可能なクロスボウがローマ帝国の昔から使用されていたかどうかには諸説あり、なかなか難しい問題です。

しかしながら、少なくとも十字軍の時代のビザンツ帝国には西欧のクロスボウは新鮮な驚きを与える存在でした。

11世紀、ビザンツ皇女アンナ・コムネナは自著『アレクシアス』(10.8.6)において、クロスボウは蛮族の弓でありギリシア人にはまったく知られていないと述べています。

ローマ帝国以前から普及していた似たような仕組みのバリスタ(投矢器)の伝統や管矢の使用から考えて、この記述は奇妙に感じられます。

アンナ・コムネナの勘違いだとする解釈もあれば、クロスボウには何らかの新規性が感じられたのだろうという意見もあります。

防御施設や船上で用いられる据置式のバリスタではない、かといって弓幹固定式の管矢でもなく、それに機械式発射機構をつけて足で引くのが新しかったからだというような解釈です。

いずれにせよ、管矢が原始的なクロスボウにすぎないという理解は成り立ち難いでしょう。

管矢からクロスボウに発展したのであれば東方でクロスボウが新奇なものと思われるはずがありませんし、十字軍期を通して使用され続けてもいるからです。

むしろ、クロスボウと管矢は、対照的とも言える戦闘様式の思想的差異を表しているように思います。

アンナ・コムネナはクロスボウの矢について、盾を貫き胸甲を穴を開け、一撃を受けた不運な者は何も感じることなく死ぬとその威力を評しています。

すなわち、クロスボウは射程距離や矢数よりも命中時の威力を重視する戦闘様式を背景に発達した携帯武器なのかもしれません。

一方、東方では、攻城戦の攻防や海戦はともかく野戦においては、管矢が象徴するように遠距離からの矢の嵐で敵を圧迫するという流動的な矢戦が重視されていたのではないでしょうか。

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