中東における装甲弓騎兵を中心とした戦闘様式について 〜Eduard Alofsによる「イラン的伝統」モデルの紹介〜

1 「イラン的伝統」モデルとは?

中世における中東やビザンツ帝国の戦争術は、後期ローマ帝国やササン朝ペルシアなどの古代国家以来の伝統を引き継ぎ、連続した共通の土壌に立っていました。

とりわけ、中央アジアから進出してくる遊牧民と戦火を交えつつ発展した騎射を用いる装甲騎兵の伝統は、この時代の戦争様式を知るうえで重要な主題だと思います。

もちろん、時代や国・地域により実情がかなり異なるのは当然なのですが、その特徴をある程度イメージできるような概説書を探していたときに非常に興味深く読ませていただいたのが、今回紹介するEduard Alofsの論考です。

2014年から2015年にかけて「アジアにおける騎乗戦争の研究(Studies on Mounted Warfare in Asia)」と題して4回にわたり『War in History』誌に掲載された諸論文となります。

Alofsは、後550年から1350年にかけての中東を中心とした戦争様式が一貫して連続性の認められるものだと主張し、そのモデルを提示しています。

具体的には、この時代における戦争様式は中央アジアの遊牧民における「トゥラン的伝統」とその影響を受ける定住民の「イラン的伝統」という2つの軍事的伝統のせめぎあいであると考えています。

技術革新のような断続的で非連続の変化により区分するのではなく、両伝統間の影響力の消長により変動する連続体として捉える立場であることから、当然に各伝統における戦闘様式をざっくりとモデル化することが各論文の主眼となっています。

本稿では、その中でもAlofsがクローズアップしている「イラン的伝統」、すなわち中東を中心としてビザンツ帝国にまで影響が及ぶ装甲弓騎兵の戦闘様式について紹介したいと思います。

2 装甲弓騎兵を中心とした戦闘様式

Alofs(II, pp.15-27)によれば、「イラン的伝統」における戦闘様式において、軍勢の展開から戦闘経過に至る流れは次のようになります。

まず、軍勢の布陣ですが、複数の戦列を重畳して形成されており持続的に戦闘を行うことができます。

中央と両翼に3分割されますが、ヘレニズム期の軍勢のように中央部に歩兵を置き両翼を騎兵で固めるような兵種別の協同ではありません。

すべての部隊が歩兵の援護を受ける騎兵を主軸とし、攻撃隊と防御隊に分かれて活動します。

攻撃隊は、散開して扇状に前進し、敵と交戦します。

防御隊は、密集隊形をとって攻撃隊の後を整然と進み、敵に心理的なプレッシャーを与えるとともに出撃・避難の拠点や予備隊となります。

この場合の密集隊形(ファランクス)は敵を追い払うための壁役であり、ヘレニズム期の軍勢のような歩兵同士の白兵戦のためではなく、心理的な圧力を加えるのが主眼となります。

攻撃隊と防御隊は都度の任務による区分であるため、入れ替わり活動します。

攻撃隊による散開戦闘は、古代ギリシア・ローマ共和政期のような重装歩兵の白兵戦闘により会戦を決定づけるための前哨戦ではありません。

弓戦を中心とした流動的な戦い自体が、戦闘の主体となります。

その他に、軍勢の弱点である側面を攻撃または防御するための部隊が編成されます。

弓手となる左手の方向に矢を射るという性質上、弓騎兵の戦闘は反時計回りに旋回する傾向があります。

したがって、自軍の右翼を強化して敵側面に回り込もうと試み、両軍の全体が反時計回りに回転する形勢になることが多くなります。

伏兵や偽装退却などの戦術も使用されました。

偵察兵や伏兵は鎧を鈍色のフェルトや毛皮の上衣で覆い、日光が反射するのを防ぐなどの工夫も見られます。

そして、戦闘は以下のように進展していきます。

密集した両軍は、かなり離れて布陣します。

そこから分かれた攻撃隊の大群が、騎槍を地面に刺すか従者に渡してから、互いに散開して前進し、交戦を始めます。

はじめに、攻撃隊は矢の嵐を放って「死の一帯(zone of death)」を形成します。

これは、即死するような一撃ではなくとも被弾した敵が退避する動機づけとなるものだったでしょう。

攻撃隊は、敵に向かって突進し、旋回して引き返します。

攻撃隊が入れ替わり立ち替わりこの一連の流れを繰り返すことで、集合的な矢の激流を作り出します。

流動的な攻撃隊を狙うのは困難ですので、速射により矢継ぎ早に矢を放ちます。

射程内に入ると旋回しながら矢を放ち、敵の追撃を誘うような慌てた様子を見せないようにしつつ引き返します。

両軍の攻撃隊は互いに後退する敵騎兵の死角である右後方を捉えようとしますので、一部の弓騎兵は右手に弓を構えて左に旋回し、右に旋回する味方の後退を援護することもありました。

敵の攻撃隊を追い払うことに成功して密集した敵の防御隊を射程内に収めることができればしめたものです。

固まって静止した敵陣は矢のかっこうの標的です。

しかし、敵の攻撃隊が崩れなければ、接近して戦う必要が出てきます。

分散した戦闘では、このような対決は少人数同士により行われることになります。

一騎討ちの勇気をもった戦士は英雄でした。

装甲騎兵の一騎討ちでも、まず弓が主役となります。

距離をとって速射で敵の非装甲部位への命中にかけるか、距離をつめて強射で相手の鎧を貫くことを試みるかの選択になります。

騎射で敵の鎧を貫くには「槍の間合い」である5メートルのぎりきり、最大で9メートル(cf. Paterson, p.84)まで接近する必要が出てきます。

矢が放たれた直後の数メートルは蛇行が生じてしまいますので、矢柄が硬く重いボドキン鏃の矢を使います。

※Alofsは数メートルとしていますが、いわゆるアーチャーズ・パラドクスによる蛇行のことであれば、現代のスポーツ弓術の文献では十数メートルとするものが多いようです。矢の硬さや長さでも異なると思われます。

長距離の速射は精密な狙いを定めることよりも、ある範囲に矢をまとめることが重要となります。

近距離の場合には一矢で相手を排除することが生死を分けるため狙いの正確さが必要ですが、騎馬同士ではピンポイントに命中させることは至難です。

したがって、例えば、正面から接近する場合には相手の鞍の前輪か馬の額を狙ったようです。

矢が上に逸れても騎手に命中し、下に外れても馬体に命中させることができます。

弓射の精度として求められる一例を挙げると、歩射の場合で70メートル先の直径0.9メートルの円内に素早く矢をまとめることが望まれていました。

敵が騎槍で向かってくるときには、距離を保って大きな目標である馬を狙うのが賢明だと考えられていました。

一部の英雄たちは距離をとって下馬し、しっかりと両脚で地面に立って、狙撃技法を用いた力強い一射で相手を仕留めようとすることもありました。

歩射は、より強い弓から高い精度で矢を放つことができるからです。

敵兵への接近は「己の命運を賭ける」ことでした。

もし弓矢で敵を排除できない場合には、白兵戦を行うことになります。

近距離から矢を放つ際には、柄に取り付けたベルトで手首に剣を吊り下げておきます。

もし肩に盾を担いでいれば、左手に取って使うこともできました。

騎槍は、防御隊が突き出して威嚇に使うのにも、接近戦で戦うのにも用いられました。

落馬の危険を伴うランス・チャージを交わすというよりは、縦横に槍を操って戦うスタイルが多かったようです。

集団で突撃し、乱戦になると、剣、メイス、戦斧を抜いて戦います。

他にも、投槍、スリングや投げ縄などが使われることもありました。

一騎討ちに勝利すれば、馬を降りて短剣で敵にとどめを刺すこともあります。

周囲の兵士たちは一騎討ちを観戦し声援を送ることもありましたが、勝手な叫び声や馬を動揺させる騒音、隊列を乱すような行動は非難されるべきものでした。

このような攻撃隊同士の戦闘に敗れた場合には、防御隊の背後に後退して、再起を図ります。

防御隊は、慌てることなく秩序を保って敵の攻撃隊を押し戻す役割を受け持ちます。

この敵の防御隊に矢を射かけて潰乱させらればよし、さもなければ、味方が引き返すタイミングで敵の攻撃隊が反攻に転じることになります。

こうした攻撃の成否は、上述の一騎討ちのような一握りのエリート装甲騎兵同士の戦いの結果が敵味方の士気に与える影響により大きく左右されました。

ちなみに、Alofs(III, p.136)による装甲騎兵の弓戦装備の詳細については、以前に拙稿「ビザンツ帝国の弓術とニケフォロス・ブリュエンニオスのアポロンの弓」「6 弓戦における使い分け」で紹介しておりますので、参考までに再掲しておきます。

装甲騎兵は槍、剣、棍棒など様々な武器を携行しますが、まず弓矢が重視されていました。矢筒には20本から40本、通常は30本の矢を収納します。ほとんどの矢は遠くから放たれるように設計されており、軽い棒状の矢柄(中央が太く樽型で、鏃と矢羽に向かって細くなる)に比較的小さく鋭い鏃がついています。この軽矢は、panjīkanと呼ばれる速射技法により素早く射ることができます。近距離から鎧を貫通するためには、nīkanと呼ばれる強射技法を用います。太く硬い平行の側面軸をもった矢柄に円錐、三角錐、弾丸またはノミ型のボドキン鏃をつけた重矢を使います。bārīkanと呼ばれる狙撃技法の場合には、より強い推進力をもたせて放つために、広い引き幅に耐える長い矢柄の矢を使用します。この矢は、矢羽の部分に向かって細くなる矢柄に重いボドキン鏃をつけたものでした。非装甲の人馬を射るには、平らな葉型・へら型などの鏃を用います。広刃の刃物は傷口を大きく開け、出血を多くするからです。Alofs(II, 21f.)は、この速射技法(panjīkan)を『ストラテギコン』のペルシア式に、強射技法(nīkan)をローマ式に対応させて考えています。

https://note.com/cuniculicavum00/n/n4364b7de3c51#7b6e719f-5213-47bb-b845-63d4ff96ca8a

3 歩兵の役割

それでは、装甲騎兵を支援する歩兵は、どのように戦ったのでしょうか?

Alofs(III, p.143-151)は、以下のように考えています。

当時の歩兵は騎兵の支援に徹した存在でした。

イラン的な戦闘様式では、騎兵は攻撃時に歩兵戦列の前方に出て戦い、防御時には後方に隠れます。

ただし、攻撃隊の騎兵に歩兵が随伴することもありました。

その際には、騎兵に同乗して戦域に向かうようなこともあります。

機動的な騎兵戦闘に合わせるために、歩兵は軽装であることが必要でしたが、力強い歩射で弓を放てる利点がありました。

歩兵の役割の一つは、奇襲への対処です。

装甲騎兵は、人馬が疲労しないように、戦闘が予想されるまでは戦馬に騎乗せず、防具も身につけていませんでした。

伏撃や奇襲にあった場合には人馬の装備が間に合いませんので、歩兵が敵を防ぐことになります。

もう一つの最も重要な役割は、動く壁役となって敵の矢玉から騎兵を守ることです。

鎧を着た歩兵は前面に立ち、膝をついて槍を構えて敵騎兵を威圧します。

騎兵に対抗するためには密集する必要がありますが、矢のかっこうの標的となってしまいますので、盾を並べて防壁を築きます。

敵騎兵が後退すると隊列を開き、味方の騎兵が追撃に出ることになります。

歩兵も攻撃隊と防御隊に分かれて、騎兵を援護します。

機動的な翼側の側面における攻防には鈍重な歩兵は不向きでしたが、被包囲下での背面防御などには役立ちました。

歩兵がパニックに陥って潰乱すれば騎兵の追撃を受けて甚大な損害を被りますが、秩序を保った強固な歩兵集団を強襲するのは好まれません。

歩射は弓勢にまさるため、射戦で歩兵が優位に立つこともありました。

第一、騎兵が歩兵を倒しても名誉にはなりません。

騎兵は、やむを得ない場合しか下馬して戦うことを望みませんでした。

両軍とも歩兵が多かった場合、例えば山地などでは歩兵同士の戦いになります。

投射武器の応酬が主であり、接近戦は一部の勇敢な兵士によるものでした。

徒歩弓兵は機動力がないため、しゃがんだり膝をついたり隠れたりして、矢玉の目標になることを避ける必要があります。

スリングや投槍などの投擲武器は走り回りながら放てるのが利点となります。

槍を構えて歩兵同士が激突することは、ほとんどありませんでした。

射戦で敵が動揺すれば、剣、メイス、戦斧などを抜いて密集したままゆっくり前進し、心理的に圧迫します。

とはいえ、歩兵が独立した戦術単位として活動することは稀であり、支援部隊として騎兵に従うものでした。

歩兵は、騎兵戦が決着して一方が敗走した後に交戦するのが一般的でした。

歩兵の装備も弓が主でしたが、さまざまな近接武器も使用します。

防具は騎兵に追従するために軽装なものがよく、弓の使用を妨げるような手をふさぐ盾ではなく、地面に立てる軽量の置盾や小型のバックラーを使うこともありました。

4 補遺:中央アジアの遊牧民的伝統における戦闘様式について

Alofsのモデルにおいてもう一方の主役である中央アジアの遊牧民の「トゥラン的伝統」(cf. Alofs, IV)については割愛しますが、最後にその特徴に関して簡単に触れておきたいと思います。

同じく騎馬と弓戦を主とする戦闘様式ではあっても、その差異が軍事的伝統同士の満ち引きとなって、この地域における戦争の様相の基底となっているとAlofsは考えているからです。

「トゥラン的伝統」における軍勢は、遠く視界外に本隊を置き、定まった隊形をとらずに少人数づつ分散して襲撃してくる点で「イラン的伝統」と対比されます。

その主体は軽装の弓騎兵であり、重装備に身を固めた一部のエリート騎兵は援護や打撃に用いられます。

彼らは接近戦の間合いに入ることは好まず、敵が弱るまで遠距離から弓射を浴びせ、執拗に追跡し続けるような戦い方をします。

「イラン的伝統」における装甲騎兵の場合には攻撃と後退を整然と反復しますが、「トゥラン的伝統」における弓騎兵は喚声をあげて襲いかかり、逃走するかのように撤退して追撃を誘う、より流動的な戦闘様式をとると言います。

5 参考文献

〈Alofs, I〉
Alofs, E. “Studies on Mounted Warfare in Asia I: Continuity and Change in Middle Eastern Warfare, c. CE 550-1350 — What Happened to the Horse Archer?” War in History, vol. 21, no. 4, Sage Publications, Ltd., 2014, pp. 423–44.

〈Alofs, II〉
Alofs, E. “Studies on Mounted Warfare in Asia II: The Iranian Tradition — The Armoured Horse Archer in the Middle East, c. CE 550–1350.” War in History, vol. 22, no. 1, Sage Publications, Ltd., 2015, pp. 4–27.

〈Alofs, III〉
Alofs, E. “Studies on Mounted Warfare in Asia III: The Iranian Tradition — Cavalry Equipment, Infantry, and Servants, c. CE 550–1350.” War in History, vol. 22, no. 2, Sage Publications, Ltd., 2015, pp. 132–54.

〈Alofs, IV〉
Alofs, E. “Studies on Mounted Warfare in Asia IV: The Turanian Tradition — The Horse Archers of Inner Asia, c. CE 550–1350.” War in History, vol. 22, no. 3, Sage Publications, Ltd., 2015, pp. 274–97.

Paterson, W. F. “The Archers of Islam.” Journal of the Economic and Social History of the Orient, vol. 9, no. 1/2, Brill, 1966, pp. 69–87.



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