果たして彼女は実在したか? 4

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「じゃいつもの手筈でいきますか!」
 1階フロアの一角を占める化粧品コーナーに機材をすべて揃えると、ぼくはいくぶん気色ばんだ口調でそう言いました。
 というのも、作業面積がゆうに普段の1.5倍はあるからなんです。大変な作業になることはわかりきっています。

 幅100m、奥行き40~50mはあろうかという巨大なフロアを一気にやれるわけなどありませんから、当然作業は小刻みになります。なりますが、その範囲を作業する側の都合に合わせるというわけにもいかないのです。
 同じ店内で、綺麗な床の箇所とうす汚れたままの場所が出来てしまうわけですから、違和感のない区切り方、というものが求められてきます。
 化粧品コーナーはほぼ正方形のスペースで、ふたりでやるには少し広すぎる感じがしました。
 ですが、化粧品コーナーというひとつの“売り場”である以上、作業の都合で区切るわけにはいかんのです。一気にやるしかありません。
 でもそれは、いうなれば職人としてのぼくのプライドでしかなく、作業員の立場で考えれば、
(余計な仕事を増やしやがって!)
という話なのかもしれません。
 ですから、人生の先輩であるGさんに一言断わりを入れておきたかったのですが、彼は早々に取り掛かっていました。

 什器の配置場所を写真に撮り、メジャーで距離を測り、それぞれに番号をつけ、慎重に移動し、壁や動かない超大物什器は汚れ防止の養生シートで包み、棚の下から溢れ出たゴミを取り除き、床面に剥離剤の溶液をまき、ポリッシャーという機械で汚れを落とし、機械の届かない隅々は手作業を施し、汚水をかき集め、真水で洗い、モップで拭き上げ、送風機を使って乾かしてワックス。2枚塗って完全に乾いたら什器を元通りに戻して仕上げのワックス……ふう、書いただけでくたびれた。
 この作業を一晩でやるのです。

 ぼくたちは、ふたりとも全身汗びっしょりになって普段より早めのペースで作業を進めました。
 額から汗がしたたり落ち、気分はかなりハイになっています。気がつけばGさんのほっかぶりはいつの間にやら鉢巻きに変わっていました。
 思わず笑みがこぼれます。
(なんかパンクロッカーみたいだな)
 どこにでもいそうな普通のおじさんにしか過ぎないGさんの後ろ姿を見ながら、ぼくはそんなことを思っていました。
 そういうぼくはぼくで、さっきからずっと頭の中にボブ・マーリーの『ライブリーアップユアセルフ(自分自身を奮い立たせよ)』が鳴り響いています。
(オリャー! いけー!)
 ひとりこころの内に、そう呟きました。
 ライブリーアップマイセルフだ!

 どんなに丁寧に除塵しても埃や髪の毛はどこからか湧いてくるものなんです。それをワックス作業の前に1本残らず取り除こう、というのが、ぼくの提案だったわけです。
 でも、その髪の毛取りの作業に取り掛かる頃には、言葉で説明するといった想いは、ぼくの中から完全に消え去っていました。無言で作業するGさんの前では、とても些細なことのように思えてきたのです。
(よか! よか! これでよかろーもん!)

 大の男が2人、虫けらか犬っころのように床にはいつくばり、床に落ちている髪の毛を拾い集めているさなか、宮沢賢治の詩のワンフレーズが鮮やかに脳裏をよぎっていきました。

『誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言っている
ひまはあるのか。
さぁ、われわれは
ひとつになって……』

 気合いを入れて仕事をしたせいでしょうか、床面に残された髪の毛はほんの数本だけで、予定の時間前にはすべての作業が無事に終了していました。
 いま、ぼくの瞳には世界はまるで本物の極楽のように輝いて見えています。そう、輝いているのです。
 その輝く世界を見つめながら、ぼくは思います。
(彼女はこれを喜んでくれるだろうか?)