パクチー犬 1

《前口上》

ぼくには別段これといって食べ物の好き嫌いはないんだけれど、ずいぶん以前には、どうにも食えない食べ物ってやつがひとつだけありました。

パクチー!

はい、そう。香草。
あれです。あれなんです。
タイ料理やベトナム料理など、エスニック料理によく使われる、三ツ葉みたいな香りの強い野菜──あれがどうにも食えませんでした。


ところが、ある日ある時ある瞬間、とある出来事をきっかけに、突然、劇的に食べられるようになったんです。いや、むしろ好きにさえなりました。

(そうかぁ、これはパクチーの
“香り”なんだぁ)

その感動の一瞬を、ぼくは今でもはっきりと覚えています。
匂いを嗅ぐだけで「うっ!」と吐き気を催し、食欲そのものさえ失くしてしまうほど苦手だったものが、一瞬にして180度の大転換、です。

それはまさに、ぼくにとって人生の大事件そのものでした。
決して大袈裟でもなんでもなく、ぼくはパクチーさんに人生の意味そのものを教えてもらったとさえ感じているほどですから。

この“出来事”を、ぼくはいま、言葉を使ってあなたにお伝えしたいと思っているわけです。
それはさながら魔法のような出来事でした――。


ところは南の国タイの首都バンコック。巨大な火の玉を思わせる太陽が、頭の真上からじりじりじりじり照りつける、そんな暑い日々のことでありました。

東南アジア有数の大都市バンコックは、都市の宿命ともいうべき排気ガスの匂いと、仏教国ならではのお香の香り、さらには強い陽射しと強い雨がもたらす立ち上る湯気のような腐敗臭によって、得も言えぬ“バンコック臭”に包まれておりました。

トゥクトゥクと呼ばれるバイクを改造した簡易タクシー、自転車やオートバイ、もちろん車や大勢の人間、さらにはあばらの浮き出たのら犬たちがうろつき回るとある街角、カオサンロードを、髪の長いひとりの男がサンダル履きでペタペタ歩いていきます。
そう、彼こそがこの物語の主人公“ぼく”です。

彼は、乞食のような風体でインドの大地を数カ月にわたってほっつき歩いた果てに、まるで海流に流されるヤシの実ででもあるかのように、ここバンコックの安宿街・カオサンに流れついていました。
いわゆる旅行者ではなく旅人です。


ポケットの中に財布と呼ばれるシロモノはなく、きちんと折り畳まれた小額紙幣が2〜3枚、それと小銭。なけなしの全財産数百ドルとパスポートは胴巻に巻いてジーンズの中です。
暑い地方のことゆえ、胴巻は常に汗で湿り、汗臭さを通り越して、すえた臭いさえ発しています。
長髪にひげ、やぶれたジーンズと洗いざらしのTシャツ、といういかにもインド帰りらしいこの汚らしい青年は、年の頃なら22〜23歳といったところでしょうか?

彼は、天井でパタパタと申し訳程度に回る扇風機と剥きだしのベット以外何もない三畳ほどの部屋に、寝袋持参で住み着いていました。日本円にして200円程度。いわゆる安宿です。

バックパッカーの滞在地として世界的に有名なカオサンロードは、いまでこそネットカフェが軒を連ねる観光植民地と化していますが、彼がうろついていた20年ほど前は、まだまだいたってのどかなもので、バンコックの庶民の暮らしに金のない貧乏旅行者が居候させてもらっている、といった風情がありました。

そんな、古きよきいにしえのカオサンロード。
季節は暑い暑い六月のことでありました──。


つづく