見出し画像

杉本博司に、会いに行く

「この作品のために東京から来ました!」
先日京都中央信用金庫で開催された、ブライアン・イーノのインスタレーション。その来場者ノートに書いてあった一言。他にも、このためにわざわざ京都に来たというメッセージ、彼の作品に救われたという心の叫びが書かれていた。

私自身はあのインスタレーションのために新幹線に乗ろうとは思わない。よく分からなかった。アートって本当にお金持ちの遊びでしかないんだろうな、なんて思いつつ、自分もアートのために姫路に行ってきた。


江之浦測候所

実は先週も行こうとしていた。でも、「本当に姫路まで行くの?お金も時間も、それだけかける価値があるの?」「もしも期待はずれだったらどうしよう」、そう思って、市バスのバス停に行ったけれど引き返してしまった。

でも、圓教寺と杉本博司のポスターが大学のいたるところにあって、その圧に押されるようにして電車に乗っていた。昨日の話。


「あなたの最初の色(私の頭の中の解-私の胃の中の溶液)」

アートは未だによく分からない。「現代芸術は解釈が開かれていて楽しい」なんて聞くけれど、豊島で見たピピロッティ・リストの「あなたの最初の色」は何も分からなかった。彼女のことをよく知らないまま行ったのが悪いんだろうか?空き家を再生する、という地域おこし×アートによくある展示。

狭い蔵に入ると、薄暗い天井に円形のスクリーンがある。気味の悪いドロドロしたものが映っている。怖い。びっくりしてガイドを見ると、副題が「胃の中の溶液」とある。ずっと見ていたら理解できるかしらと粘っていたら、全裸の女性が泳いでいる映像になった。理解を諦めて、茫然としながら蔵を出た。「鑑賞者を幸福で包む」がコンセプトらしい。さっぱり分からない。

豊島美術館と「心臓音のアーカイブ」が楽しかったから、豊島に行ったことは全く後悔していない。でも姫路はどうだろう。


姫路市立美術館。仏像の改造を「希釈」と言っている

美術館はよかった。でも、圓教寺はちょっと分からない。至る所で広報を頑張っているわりに、会場は何も頑張ってないなと思っちゃう。姫路駅から会場まで行くの時間かかるし、どうやら杉本博司を目当てにここまでくるひとはほとんどいない感じだった。後期展示の今は、能の映像が流れている。でもこの映像ネットで見られるし、やかましくて展示(「海景」)に集中できない。

芸術祭は、どこを向いているんだろう。冒頭の問いに戻る。人を呼び寄せたいのか、地域を盛り上げたいのか、観光名所を増やしたいのか…。その点京都はしっかりしていると思う。kyoto experimentを筆頭に、地に足のついた活動が多い。兵庫でも近代の芸術運動は盛んだけれど、なんか中途半端だよ。作品をみてもらいたいなら、もっと頑張ろうよ。

美術館は本当によかった。珍しく作者が「図録を買ってくれ」と最初の挨拶で訴えていたので、買った。会場のキャプションは館の人の言葉で、図録は杉本自身の言葉で綴っている。それがいい。それでこそ図録だ。本歌取りは杉本の作風を表す一言だが、それを「美術館」という場でひも解く意味、姫路で開催する意義を丁寧に描いている。良い展示だ。



圓教寺、五輪塔の海景

なぜ杉本博司が好きなのか?それもはっきりとは分からない。ただ、惹かれる。苦しいとき、見に行きたいと思う。ここ数日、とても苦しかった。自分の人生への後悔、頭の中を占拠し続ける元恋人の記憶(振り払おうとしているのに何度も出てくる、邪魔!)。そこから逃げたくて。傷心旅行みたいなものだと言い聞かせて電車に揺られた。江之浦測候所、直島、瑠璃の浄土展の記憶、どれも傷を癒してくれた。だから姫路に来たんだ。

海景は、原始の記憶らしい。彼の宗教めいたメッセージに全て共感することはできないけれど、海景の前に立つと引き締まった気持ちになる。大好きな松林図屛風の前に立った時のような感覚。

私は「友達」という概念への認識が歪んでいるらしい。最近気づいた。だから、杉本の作品に拠り所を求めているのだと思う。崇高なことを語っているけど、諧謔を大事にして、等身大でうがった見方で作品をつくる。誰かを攻撃することもないし、否定することもない。生に向き合って死を描く。

来年には、春日大社で展示があるらしい。また行くだろう。傷を負っても、杉本に会いに行けばちょっと強くなれる。しかも、相手には何の迷惑もかけない。対等な関係だ。

アートに求めるものは人それぞれ。それでいいと思う。いろんな作家に出会って、なんとなく惹かれたものを追ってみてほしい。いつか自分を支える柱の一つになってくれるかもしれないよ。


直島、「海景」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?