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◆適応と依存と過剰と恋愛

個人的な執筆作品が本日、2502話に到達。
書かないと飢餓感でどうにかなるという焦燥感もあり始めた日課も、始めて気づけば七年と八ヶ月かな?

やっと。やっとだ。
連載時代に抱えてきたもの。いやさ、それよりずっと以前から人生を通して行き詰まりを感じていたものの輪郭を捉えた。

適応だ。


有斐閣の現代心理学辞典いわく。

環境や対人関係などの周囲からの期待を取り入れ、自分との調整をする過程。

有斐閣現代心理学辞典、有斐閣、2021

現代精神医学事典においては。

互いに葛藤する要求間のバランスをとったり、障壁となっている環境に働きかけたりして、個体の体験するストレスを最小限にすることを目的とした行動的な過程をいう。

現代精神医学事典、弘文堂、2016

臨床心理学中事典では元々は生物学や生態学の用語であるとして心理学では次のとおりとしている。

自らの欲求とそれを阻む周囲の障害との間を調節する(折り合いをつける)プロセスのことを指す。

臨床心理学中事典、遠見書房、2022


小児期において、適応に負荷がかかりすぎる場合に(状況によって深刻な)影響があるという。
こどもに実現可能な適応の具体的方策は決して多くない。
耐える。我慢する。弱音を吐けない。本音を言えない。黙る。大人にとって都合のいいこどもになる。
そうすると、適応はだいたいが過剰になっていく。


それでは過剰適応とはなんだろうか。


有斐閣の現代心理学辞典いわく。

周囲からの期待に自己を過度に合わせていくと、その人の欲求を抑圧する結果となる。これが過剰適応である。

有斐閣現代心理学辞典、有斐閣、2021


現代精神医学事典によれば?

自分の感情や欲求を無理に抑えこんで、周囲にあわせている状態。

現代精神医学事典、弘文堂、2016


自己を過剰に抑え込むのだ。
こどもに選べる方策は少ないと先に述べた。


耐える。我慢する。弱音を吐けない。本音を言えない。黙る。大人にとって都合のいいこどもになる。


これらを過剰に行い、自己をどんどん抑圧していく。
それが自分にどれほどつらいことか、わからない。
わかったとしても、続ける以外に術がない。
そもそも、それ以外に術があることを知らない。気づかない。
知っていても、気づけていても、それができる相手がいない。居場所がない。
そのため、過剰適応に陥る場合、出口を知らない。出ていくことを知らない。わかっていても、行えない。そうしたケースが想定される。


注意事項として、適応にしても、その回復にしても、定義が様々あるばかりか、個々人によって大きく異なる。
また過剰とはいえ適応できているのだから問題ない、などという状況も存在する。(実際には心身に影響が出るまで危険な自傷行為を続けているような可能性が想定される)


こうした適応は苦しい。
つらい。
しかし、いまの居場所に留まるために必要だ。
それ以外の術がない。
だから過剰になっても、やめることを選べない。選びたくない。


そこで自分を慰撫する依存先を求める。
私たちは社会生活において、人との交流において、あらゆる依存先を求める。
多ければ多いほどいい、というわけでもなく、少ないからいけないというわけでもない。
ただ限定的な場合には、とても危うい。


適応の苦しみを救ってくれる依存とはなんだろうか?


  • 自分の人生観や価値観の中で、自分を肯定してくれるもの

(例:人間関係(友情、恋愛、親愛)、学業・運動・仕事の成果や達成感)


  • いまの苦痛を和らげるもの

(例:勉強、運動、仕事、会話、接触、飲酒、喫煙、薬物、性行為、賭博、買い物など)


  • 苦しみをだれかで晴らすもの

(例:暴力、加害行為、支配、操作など)


これらは組み合わさることも多い。
限定的になっていくほどに危うい。


一見すると仕事や学業などはよさそうに思える。
だが実態は異なる。
家庭で問題があり、仕事に逃げて家に帰らない。家族とコミュニケーションを取らない。
だれとの交流も避けて、勉学に勤しむが、それが実のある学習とはかぎらない。
運動にしても、なにかあるたびに走り回ったりせずにいられないようでは、社会生活に困るだろう。


適応の苦しみは、その時々の過去の自分の悲鳴である。弱音である。本音である。発露できなかった感情である。
それらは具体的に異なる。
人によってもだ。
そのため、ひとりひとりの対処とケアは困難を極める。


もしも、この苦しみを癒やす依存を、だれかに求めたら?
到底、受けとめられるものではない。
もしも、この苦しみに見合う成功を依存に求めたら?
終わりのない行動を、保証もない目的に向けて行いつづけることになる。
いずれにしても、実らない。
それはとても苦しいものだ。


しかし、適応で耐えてきた者ほど、耐えたからこそ報われるべきだと求めずにはいられない。
なにより、過去の幼い自分たちが救いを求めて悲鳴をあげつづけている。その声が、痛みとなって心を傷つけつづけるのだ。
とても正気ではいられない。
そして、正気ではいられない者の求めに応じられる他者はいないし、まるごと癒やせるほどの成功など存在しない。


だというのに依存症のように、飢餓感のままにますます求める。
救いと共に行為しようとする。
行為は本人にとって答えであり、目的であり、解決手段なのである。
あまりに切実だ。ずっと抱えてきた飢餓感だ。
餓鬼のように歯止めがなく、衝動的で、重たく強く過剰だ。
だからこそ、他者にとってどうかという視点が欠如している。
本人にとっての答え、解決が他者にとってどうなのかという視点が欠如しているために、どれほど行為を望んでも、結果は出ない。得られない。
仮に相手が一時的に対応してくれたとしても、長続きはしない。
成功や達成感にしても、長続きするものではない。一時のものだ。
それがまた、飢餓感を刺激する。


どうにかして救われようと必死になる。
溺れる者は藁をもつかむ。これまでつらく痛く苦しかったからこそ、必死になり暴力性を伴う。それも過剰なほどの加害性に発展するほどの。


自分を救ってくれるものとして、限られた依存先に自分の求めるものばかり要求する。
なにせ飢餓状態だ。休むことさえできない。


これまでずっと耐えてきた。我慢してきた。弱音も吐けなかった。本音なんか言えなかった。黙ってばかりだった。大人にとって都合のいいこどもだったし、いまだって周囲にとって都合のいい自分でいるのに必死だ。
だからこそ、救われるべきだ。報われるべきだ。
その欲求が「自分を救え」と、相手に求める行為に発展する。


千と千尋の神隠しでいうカオナシが、千尋に「ほしがれ」と要求するように。「千がほしい。千がほしい」と繰り返しながら、怪異の姿で彼女を追い続けるように。


どちらも似たような問題を抱えている。


自分を慰撫することを知らない。
自分を治療することも知らなければ、自分になにができて、なにができないのかを知らない。
必要なときに、だれかに助けを求めていいことを知らない。
耐えなくていいことも、我慢しなくていいことも、弱音を吐くことが大事なことも、本音を言うことが大事なことも知らない。
黙るより言ったほうがいいことも、だれかに都合がよくなくていいことも知らない。


だから、自分がなにを思っているのかもわからない。
自分がなにに苦しんでいるのかも。なにを求めているのかも。なにが大事なのかも。
その伝え方も。自分の気持ちを許すことも。
なんにも知らない。


知っているのは?

耐える。我慢する。弱音を吐けない。本音を言えない。黙る。大人にとって都合のいいこどもになる。

それだけだ。
よくて、そこから発展するやり方がせいぜいだろう。


こうした人間が恋愛をしたら、どうなるのか。
悲惨だ。ただただ、悲惨だ。相手にとって。


本人はいったいなにが悲惨なのか、気づくことさえないだろう。
なにせ、ずっとずっと必死だからだ。

耐える。我慢する。弱音を吐けない。本音を言えない。黙る。大人にとって都合のいいこどもになる。

こればかりに必死で、自分のことさえわからないからだ。


自分を愛せない者に、だれかを愛することができようか。
こんな決まり文句があるが、ボクは足したい。


自分をわからず、愛もわからないのだから、相手もわからず、相手の愛もわからないのだ。
だれかに愛されたいのなら、まず自分を愛せよ。
お互いの愛に、お互いの愛が芽生えて育つようになるとき、ふたりの心が通うのだ。
そのためにも、まずは苦しみ叫ぶ過去の自分たちを、まず自分が愛せよ。


ボクは過去を、過去の恋愛を通じて己に欠けていたものの輪郭をこそ捉えたかったのだ。

よい一日を!