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無垢ではない

被害、過失、失敗をしたとき。
いろんな呼び方があるものの、ごく単純に述べるならば「思いどおりにならなかった」とき。

理想と異なる現状において、まず無垢な私に回帰しようとする。


自己の影を他者に投影、転移させることで「思いどおりにならなかった」自分を守ろうとする。
このとき実際には批判のつもりが非難や中傷、人格攻撃に発展していることも多い。
あらゆる態度が言動ににじむ。言動の選択に現れるためだ。
その熱量は攻撃的な姿勢の燃料となり、循環していく。

無垢な私になりたい、無垢な私でありたい、無垢な私に戻りたい。
そうした欲動のままに投影を何度も繰り返すことで、痛みや苦悩を再現しつづけてしまう。


自分の行う批判がいかに正当なものであるかどうか。
それとはまったく異なる領域で、傷つき、痛み、嘆き、悲しみ、怒り、苦しむ多様で多声的な自己がケアと治療を求めている。
無垢な私への希求が選ぶのだ。

無垢な私になりたいという欲に留まるかぎり、見えなくなるものがある。
目の前にいる人もまた傷ついている可能性。
だれかが同じように無垢な私になることを求めて攻撃に転じている可能性。
そうした捉え方にさえ、私を守るために私を責める影を投影していることもある。


無垢ではいられない。
無垢なまま過ごしたかった時間は戻らない。
やり直すことはできず、過去を再現しても無垢になれるわけではない。
無垢な私には帰れない。

ただ、無垢な私は心の中にいて、訴えている。
傷ついて無垢ではいられない私もまた、心の中にいて、傷ついている。
主観的にどちらの私にも対応していくほかない。

ケアと治療を何度だって繰り返しながら影との対峙に向かっていき、自己への旅をしつづける。それこそがフランクルが夜と霧で語った生きるということへの答え方に向かう心構えのひとつなのではないか。ユングの語る自己への旅路の歩み方なのではないか。


案外、セカオワの「RAIN」における「魔法はいつか解ける」とは、無垢な私という魔法に向けられているのかもしれない。

なんてな!


よい一日を!