◆自己開示ダム
割と赤裸々に自己開示をし始めている。
一方で、この自己開示は周囲に向けた自分開示ダムだなあと考えている。
投稿に留めながらも、放水を始めている。
なにせ、自分の中に溢れかえるようなものがたまっている。
これまで決して放水してこなかったダムの止水が、とうとう終わりを告げたかのように、とうとう吐き出し始めた。
水源は尽きることがない。
何年分、何十年分かと言わんばかりの量だ。
話してどうにかなるものではなく、それでも時折もれちゃうことがあるのだから、実に厄介な水源である。
放水は生々しい自分を吐きだす行為だ。
家の壁をいきなり全部硝子張りにするくらい、赤裸々だ。
これまでためてきたものを露わにしようとするのだから、通りすがりの人からすれば「ぎょっ!」とする勢いである。
もちろん、さかなクンではない。
でも「ぎょぎょぎょっ!」レベルの勢いだ。
こういう自己開示、相手の反応を求めているケースもあれば、求めていないケースもある。
先日、積極的に自分を開示している人に出会った。
その人は自分だけじゃなくて、ボクと自分との共通の知り合いについて、とてもプライベートで決して又聞きするべきではないことを開示し始めた。
こりゃまずいぞ? と思ったのだけど、なにせ放水の勢いが激しいものだから、待ったを掛けられない。
トイレ行かないと~とか言って抜ければよかった。
始まった放水に足を取られて、ボクは相手の放つ情報に流されてしまった。
相手はボクに一定の交流や反応を求めていた。
期待していた。
放流した内容に見合った行為や態度を求めていたのだ。
いやでも、待て。
ダムの放水は、常に一方的で、不可逆だ。
干渉することはあっても、放水先の干渉を求めるものではない。
人の交流もそうだ。
発するとき、受ける相手の選択肢を限定できるものではない。
受けるとき、発する相手の期待に応じるかどうかは自分で決める。
放水は結果を得られない。
答えも得られない。
そのため、しばしば「そんなこと悩んでも、ぐちぐち言ってもどうにもならなくね?」という真理に行き当たる。
そうだ。答えも結果も得られない。
ただ、放水は水を吐きだしながら、自分になにがたまっていたのかを確認する行いなのである。
そこに答えはない。結果も得られない。
なにも解決しないのである。
しかも水源はおよそ尽きることがないのだ。
弁を解放しても、水が減らないのだから放水前後に変化がない。
ただ自分になにがたまっているのか、自分はなにを考え、なにを思っていたのかを探ることはできる。
自己開示とは、そのための手段なのだと心得ていたつもりだ。
そして「ぎょぎょぎょぎょぎょっ!?」レベルの刺激的なものになりやすい。
受けとれるものでもない。
ためこんでいた水源が膨大なほど。勢いがすごいほど。中身につまった痛みや苦悩が強いほど。
そりゃあ、専門家がいるわ!
専門家に国家資格だなんだが求められるわ!
相性もあるわ!
なんて思うのだが。
放水の勢いを利用して相手からなにかを得ようとする人もいる。
これにはボクも覚えがある。
あるのだけど、痛感している。
水源はどうにもならん!
水源の影響をどうにかするほかにない。
ダム構造も水源も自分だ。
死ぬまで付き合う自分自身なのである。
そのために放水して、自分を知るのだ。
流れ出た水から己を学ぶのだ。
専門家に期待するのも、自己探求の補助ではないか?
なのに放水の勢いで、相手になにかをしてもらおうとは。
これいかに?
よい一日を!