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映画大好きポンポさん 感想

映画大好きポンポさん、pixv漫画で有名だったらしく、twitterで人気なのを知り、遅れて見に行った。

ポンポさんの話と思いきや、ジーンくんとナタリーの成長物語をはじめとする、映画に携わる人たちの話だった。
クリエイトに携わる人達には刺ささる映画だと思ったし、ジョゼ虎と期間を開けず公開されたので、合わせて良い作品に出会ったと思えた。3回、映画館に見に行く。

製作はCLAPさんで、新しいとこ。
監督はufotableの人。記事を読んでいると、監督がこの人で良かったと思う。

主題歌「窓を開けて」はこのポンポさんにふさわしい選び方で、偶然にネットから選んだ歌手さんで選出するという面白い選び方。その出会いを表現するMVが素敵だったので是非。夢を掴んでデビューを果たしたのはCIELさん。
他にも、花譜さん「例えば」、EMAさん「反逆者の僕ら」が挿入歌として参加している。

意外だったのが、かわいい絵柄でかわいい話ではないし、ポンポさんメインじゃないところ。
漫画は微妙で見れないけれど、映画としてとてもよい作品に仕上がっている。

以下、感想になりますが、重複して書いていたり、映画の内容にほとんど触れていない感じで、自分が感じたことを書いているので、ご了承下さい◯

●1回目視聴感想


ブレないこと、それは自分に足りないことだと思う。誰一人にみてもらいたいか、誰一人のためにか、それが輪郭を、ちゃんと自分の想いを、作品を、目的を、くっきりさせるものになる。大切な人?そこに重なる自分はいるのか?何かを捨てる覚悟、失う覚悟、それとも選択する覚悟か、向かう場所は、頑張るは、そこから来るのかなと思ったり。

●2回目視聴感想


何かを選択していく覚悟はいる。自分が求めるものが何なのか、どうありたいのか。そのために犠牲にしないといけないことはあるし、誰かを裏切ったり傷つけることもある。とても辛いこともあるし、でもその先に自分に残った、選択した、ものが、自分が諦めきれなかったものなのかも。
そこに、自分がいるのか。何かをなぞって自分をないがしろにして、自分がいない道を歩いていないか。自分の大切にしていることは何か。誰にそれを届けたいのか。それに自分はただあぐらをかいて、何の苦悩も努力もなく、待っているだけになっていないか。誰かが自分を引っ張りあげてくれるのを待つだけで、出来ることを精一杯に考えてやっているのか。
奇跡は起こらない、それは積み重ねてきたことが積み上げてきた必然だ。自分で、何かを選びとっていかないと、それは曖昧なものの集まりにしかならない。中途半端なもので、本物にはならないのだと思う。そこに責任、自分がいないから。

ジーンくんは、下を向いていた。世間から遠ざかって、いろんなことから逃げていた。でもそれは、世間からみたらとても駄目なことでも、ジーン君にとっては、自分でちゃんと選択してきた道だった。ナタリーも夢のために、暮らしを脅かしながらも、何度駄目になって悔しくて泣いても、前を向いて自分を奮い立たせていた。

まだ若いから。何て言うけれど、自分は自分がやって突き詰めた先を知っているのだろうか。
自分がジーン君みたいに、死ぬ気で頑張るなんてことは違うと思う。この映画が伝えたかったことは、そこ以外にもあったと思う。ちゃんと自分で選択して、その選択に自分の意思、覚悟、自分への責任があったのか、そこに自分がいたのかを問われたと思う。例え、それがどんな選択だとしても、プラスだとかマイナスだとか関係なく、選択し、自分の元に残ったことは、ちゃんと自分のものなのか。そこに自分を見出だせているのか。残った先で、自分はどうしたいのかが明確かが大切。

ただ適当に決めてきた訳じゃない。他人からどう見られるかもちゃんと分かっているから。そう見られるしんどさも全部もがいて決めたことなんだ。適当に楽に、そう思って決めたことじゃない。そう思える内容だった。

●3回目視聴感想


ただこなしてた人間が本気になるきっかけを与えてくれるのもまた夢を見る本気になった人なんだろう。選択して捨てていくことを伝えたい訳じゃない。自分で選んで進んでいくこと、そこにあることに責任をもって生きていくことの大切さを言っているのだと思う。

間違いも正しさも、そこにあるものは選んだそれからの本人にしか意味付けは出来ないものだ。他人のレールに乗っていたらそこに自分で意味を見いだせない。他人には何でもないものが、その人にはかけがえのないものに見える。
他人の言葉や経験は素晴らしいものかもしれないけれど、それに自分が誘導されるだけでは、そこに自分はいない。そこから自分で考えて選んで自分のものにしようと決めて、それを貫く覚悟を決めて、はじめて自分で選択したと言えるのではないか。

大きなことをする、本気になることをする、他人に自慢できるようなことをする、そういうことではなくて、ありふれた日常で自分達は選択し続けているけれども、そこにちゃんと自分がいるのかということだ。ただ何も考えないでしたがっていないか、人のせいにしていないか、それは理由はどうあれ自分が選んでしまったことだということで、ちゃんと自分で責任をとらないといけないことなんだ。

誰かに何かを届けたいと思うなら、そこに自分の意志が存在しなければ届かないだろう。借り物の言葉や行動になりそこに自分の気持ちや意志がいなければ、自分はただの操り人形だ。どうやったって、自分の思いは届かないだろう。

気持ちを乗せることとはどういうことだろう。行動や言葉に届けたい相手や気持ちがちゃんとフォーカスされているかどうかではないか。映画でも監督が言ってた。ぼやけた誰とも分からないような人に届けることはできない。この映画だってそうだ。ジーンくんは、ポンポさんに焦点を当てたのだろう。刺さらない人はいる。自分はこの映画に自分を重ねられた。だからこうして何回か足を運んでいる。自分にとって大切な人は誰か、何を伝えたいのか、そうするためにはどうしたらいいのか、はっきりさせないと、何がしたいのか分からないブレた日常になって、その日常に自分の意志が薄れて、他人に依存するようななはされるような、そんなぞんざいに扱われてしまう日々に気づかないうちになっているかもしれない。そうならないように、ちゃんと自分の選んだことを一つ一つ確認しながら、進んでいかないとなと思う。



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