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『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』感想

 

 今話題の映画クレヨンしんちゃん『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』を先週末観て来た。独りで。

 事の発端はあるフォロワーの何気ない一言だった。

ところで、子どももいなければ、一緒に映画を観に行く女性すらいない大人の男性が、まだ劇場で公開したばかりの新作クレヨンしんちゃんを観て「俺はもうひろしに共感出来なくなってしまった」と嘆くリアルがあるのだろうか…?

 現在この作品は非常に炎上している。確か最初に流れて来た感想はファミリー層からの「怖い」という物だった。そしてその次からは「弱者男性を玩具にするな」という当事者感の強い反発が見えるようになっていた。

【ややネタバレ】映画クレヨンしんちゃんは弱者男性がテーマだという? - Togetter

 一例として挙げたこのまとめからもその憎悪は滲み出ており、その瘴気だけでも世界が黒く染まっていくような感覚に陥りそうだ。
 しかし、本当に本作はそんなに非難轟轟になるほどの作品なのだろうか?現代ではSNSの発展により「気軽に共有」し、「人と繋がる」ことで一つの感想が大衆化した物となり易い。最近と言うほどでもないが、『大怪獣のあとしまつ』のネガティブな反応の共有は本当に酷い物でバズを狙った大げさな感想が共有された結果、「令和のデビルマン」等の不名誉極まりないオーバーな評価が流行ってしまった。
 本作の低評価も、そのような大衆化のムーブメントに、昨今の流行りの当事者性の付随も合わさり、騒動を大きくしているのではないか?と思った次第であり、敢えて独りで当事者感を強める形で観に行ってみた訳である。

駄作。

 「テーマその物は悪くないのだが『クレヨンしんちゃん』ではもう抱えきる事が出来ないテーマに手を出して回収しきれていない」という感想だった。これだけなら「なんだ。いつもの『クレヨンしんちゃん』映画ならあるあるじゃん。」と思う人もいるだろう。
 しかし、それを踏まえた上でも、本作は凡作ではなく駄作である。何故そのような評価を下したかはこれから説明していく。

 ただし、先に述べておくと映画館に観に行った価値はあった

 今回のクレしん映画のテーマは、恐らく格差である。ファミリー・子供向けの映画としてはなかなか異色のテーマであり、どこに向けたメッセージ性を持つのか、正直答えにくくなっている。「リアルな社会問題を子供向けの作品で大真面目にやるとどうなるか」という話は、思春期頃の少し賢くなったガキなら誰もが一度は考えるであろうアイディアだ。実際、本作に限らずクレしん映画は「オトナ帝国の逆襲」等、今までもそういったリアルな側面を持つテーマには挑戦し続けて来ていた。
 では、本作は名作と名高い「オトナ帝国の逆襲」のような「子供も大人も見て面白がったり・感動出来る作品」なのかというとそうではない。
 この作品は現代社会における「大人達が問題を先延ばしにし続けた結果のしわ寄せ」が強く描かれており、「オトナ帝国の逆襲」以上に不愉快で悲惨な描写に力を入れてはいるが、明らかに解像度の高い"弱者"の実情を描き過ぎた結果、解答を用意できないまま力推しで解決するかの様な結末に陥ってしまっており、消化不良感が否めなかった。 
 

あらすじと感想

 非理谷充(30)は非正規雇用の派遣バイトで日銭を稼ぎながら独り孤独に社会の片隅で生きている孤独な青年だ。彼にとって日々の光明は推しの地下アイドルだけであり、それ以外に救いはない。労働者としての存在以外の価値を現代社会では持たず、誰からも名前を呼ばれない彼にとってはそれだけが自身の世界を支える僅かな光明だったのだろう。

 その日も、彼はひたすらにノルマを熟すが如くポケットティッシュを配り続けていた。道行く人々は当然にして自分の差し出すポケットティッシュを無造作に受け取るか、または無視するだけだ。丁度先程も仕事終わりの中年サラリーマンの二人が、一瞥する事もなくポケットティッシュを受け取ったばかり。ただただ無造作に配り続ける中、突如三人組のイケイケなサラリーマン達にも絡まれて突き飛ばされてしまい、先程の中年サラリーマンが今更存在に気付いたのか手を差し伸べるも非理谷はその手を払いのけてしまう。

 この描写は非常に細かい。現代資本主義社会では多くの人間が労働力として単価を発生させる言わば社会の歯車となる訳だが、その実態はこのような人間の疎外化である。特に底辺職とされる物であればあるほど、人は人としての価値から離れ、「名前を呼ばれない」状態になっていく。彼等───野原ひろし(35)達の世界には非理谷充という人間は「右側からポケットティッシュを差し出してくる存在」以上の意味を持っていない。極端な話、彼がペッパー君のようなロボットでも変わらないのだ。
 自身を機械的な労働力としてしか認識していなかった人間が、いざ手を差し伸べてきた時は今度はそこには確かな「弱者への哀れみ」が存在している。手を払いのけるのも無理はないのだ。

 でも大丈夫、自分には推しのアイドルがいるから─────自分を奮い立たせる為か、そう思って携帯を取り出して画面を見た彼の表情は大きく引き攣ることとなる。

"推し"からの結婚報告。

 「"推し"に近付けている」という淡い夢を持つ彼の世界が一瞬で壊れていく。様子がおかしなことにも誰も気付きはしない。

 更に運の悪い事に丁度彼に似た風貌の銀行強盗が逃走しているという情報が入ってくる。道行く人々の視線が今度は彼に注がれることになる。犯罪者として。

 
必至に逃走を続ける中、追い詰められてしまった彼は突如として黒い謎の光を浴びることで強力な力に覚醒、世界への復讐を開始する事にする。
 
 丁度同時刻、春日部市の一軒家にて白い謎の光が発生していた─────

 ここまでが冒頭なのだが、既に野原ひろしと非理谷充の対比が凄まじい。
  かたや家族に囲まれる一軒家の大黒柱にして、仕事もなくなる心配のない、現代でいう"勝ち組"だ。しかも翌日には息子の運動会も控えており、しっかり休みも取れている。
  対して非理谷充の方はどうか。明日を生きるための日銭をどうにか稼ぎつつ、推しに貢ぎ続ける事が生き甲斐な、現代では"弱者"とされる存在だ。当然家庭はない。
 途中、野原ひろしが「最近は不景気」と漏らすシーンが挟まるが、これも立場の視点が全然違う。同じなのは単語としての意味だけなのだ。

さて、ここまで読んだ人はこう思うだろう。
「この作品、ここまで暗い対比を描いてちゃんと解決できるのか?」

少なくとも冒頭の描写だけでもこの作品はホアキン・フェニックスの『ジョーカー』を意識していることは明らかで、「クレヨンしんちゃん」という作品で抱えるには難しくなっている。映画クレヨンしんちゃんは「ぶっ飛んだ悪人が超常的な能力で大暴れするも野原一家に打ち倒されて諭される」のがセオリーなのだが、本作の悪役は「敵としてのスケール」が小さい分社会が抱える問題点としての側面が大きく、野原一家で果たして解決できるのか怪しいのではないか?という疑問が湧いた。そしてその予感は段々と的中していく事になっていく。

 中盤では超能力に目覚めたしんのすけとかすかべ幼稚園に立てこもった非理谷充が衝突するのだが、ここでも『ジョーカー』のような「無敵の人の犯行」を意識したかのような描写が多い。
 明らかな殺傷能力を持つ超能力でよしなが先生を振り回し、園児のお弁当を食い散らかして「最近のガキはうめーもん食ってんなぁ!」と声を荒げ、壁に貼られた"未来"への絵をぐしゃぐしゃに丸めて「この国に未来なんてないんだよ!お先真っ暗だ!」と叫ぶ彼の絵図は、この映画を見に来ているであろうファミリー層には大層ウケが悪かったであろう。実際に大スクリーンで流れるこの描写には「怖い」という感想が大変多く、ファミリー層とは程遠い僕でも眉を顰めた位だ。
 この時点でも、この非理谷というキャラクターが今迄のクレしん映画には中々ないタイプの「矮小で現実性を強く体現したキャラクター」であることが伺える。

 終盤、しんのすけに翻弄されて幼稚園を抜け出した非理谷充は、どうやって世界に復讐しようか考えている所を悪の科学者のヌスットラダマス二世に付け込まれ、行き場のない若者たちを集めた社会転覆計画として「この将来の無い世界を一度破壊する」為の負の力を集めるエナジーとして利用されてしまう。このシーン不況の中寂れて廃園した遊園地が舞台であり、どこか「オトナ帝国の逆襲」のオマージュを感じられるのだが、やはりそこも含めて「どこの視聴層に向けたアピール」なのかが不明であり、そこも不満点の一つだった。

 結果的に、エナジーを利用して破壊兵器を作る計画は失敗し、非理谷充自身が破壊兵器のパーツを吸収して化け物と化す。この見た目が完全にジョーカーその物で「道化という玩具」なのもどうかと思った。『ジョーカー』を観た人なら分かると思うが「"ジョーカー"は道化ではあっても玩具ではない」のだ。
 また、ここから増えていくしつこい程のガンダムのパロディ・オマージュを挟んでいるのは、ガンダムに本来含有されている「未来社会への課題と解決方法」を意識した上なのだろうが、やはり上滑りしている感が否めない。
ひまわりも覚醒した事で「二人のサイコパワーで非理谷充の作り出した巨大な隕石を止める」シーンも発生するのだが、これは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の最後のシーンだろう。
ここも本来大変意味のあるシーンなだけに、先に『ジョーカー』を持ってきてしまったせいでパロディ・オマージュとしての消費に収まっているように感じられたのが残念だった。

 最終的に暴走を繰り返す非理谷充にしんのすけが吸収されてしまうも、しんのすけが精神世界に入り込んで彼自身が抱える孤独と向き合い、過去の苦難に共に立ち向かっていくことになる。

ここからが本作最大の問題点。
 
なんと、非理谷の過去は親が離婚する中学生位までしか描かれず、ここまで散々描かれて来た「大人達が未来に問題を先延ばしにしたから現役に未来がない」という問題指摘が、極めて個人的な話のレベルに収まっているのだ。
 明らかに問題が大き過ぎて野原一家では解決出来ない結果、「しんのすけが精神世界に入り込んで寄り添う」という無理矢理な解決に収まっている。
しんのすけが「オラの仲間をいじめるな」といじめっ子に向かい立つシーンは「名前を呼ばれる事もなかった非理谷充」にはとても心強いのは間違いないのだが、やはりどこか「物語を畳む為の」ご都合主義を感じてしまう。
 精神世界が外に映し出されている為、野原一家達も外からしんのすけを応援するのだが、やはりここでも「非理谷充を応援する人間」は誰も居ない。
せめて、野原ひろしは「大人達が未来に問題を先送りし続けたせいで、今を生きる若者の社会に未来が全然ない」ことを認めていた以上は「非理谷君負けるな」位は言うべきだったのではないか。

最終的には暴走状態から解放された非理谷充にようやくひろしが面と向き合って「君には何でもできるんだよ」と諭すことになるのだが、「とーちゃんの名言BOT」を入れているかの様な違和感だった。
それもその筈で、アイコン化した野原家と極めて現実的なディティールの非理谷充では、最早互いの現実は別物なのだ。
野原一家は「令和の平均的な男性」が持てるものではなくなっている。その立場からの発言は確かに説教臭く、白々しく感じてしまった。
 
 我々が、我々こそが、悪化する社会の構造を担う一端であり、互いが互いに共犯関係であることを忘れ、都合のいい"悪役"を求めて解決を図ろうとする、その姿勢が本当に「社会問題を語る姿」なのか。
 本作は終始そのようなイラつきと不満点が拭えず、社会問題を個人の問題に矮小化してしまったところが結局の所「挑戦はした」だけの評価に収まるところなのだろう。

余談

 ただ、冒頭でもあったように「映画館に観に行った価値はあった」。
それは映画の終盤のことだった。非理谷充の過去が描写されていく過程で、何か違和感を感じて隣を見ると隣の女性が嗚咽を漏らしていたのだ。
間違いなく、彼女は非理谷充の過去に感情移入するが如く涙を流していた。 
人が人の為に涙を流す事がまだ出来るのならば、社会の歪みの被害者もまた救えない事もないのではないか。
 多くのファミリー層は非理谷充に対して「社会を支える体制派」として彼には厳しい視線になるだろう。
しかし、全ての人間がそれだけではない以上、"彼"にとっての仲間、そう友達という味方が出てくれるのかもしれない。
 そう思わせてくれたことを踏まえると、この作品を映画館で観た価値自体はやはりあったのだろう。

あと、3DCGで質感がかなり増したよしなが先生のケツだけ星人は不覚にもエロかったので、それだけを見に行くのはありかもしれない。

参考までに原作になった話が無料公開されているのでこちらも読んでみると分かるが、「社会の歪みにあたる弱者が悪の超能力に目覚めて正義の超能力に目覚めたしんちゃんに負ける」構図自体は変わっていない。
こちらも気になった方は読んで見て欲しい。

https://manga-shinchan.com/shinchan-esperkyoudai/episode/001-shinchan-esperkyoudai



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