禍話リライト:忌魅恐「屋上に誰かいる話」
これがねえ、予備校の話なんですね。
*
忌魅恐、についての詳しい前提はヴェナル軍曹氏による「序章」のリライトを参照していただくとして。
冊子の中の記述から考えると、恐らくは今から十数年以上前に起きた出来事であるという。
とあるオフィスビル。その最上階に予備校が入っていた。
まず最初に断わっておきたいのだが、この予備校には何の曰くもなかったそうだ。
成績の低下を苦にした生徒が教室で自ら命を絶った、であるとか、かつてここに勤めていた先生が事故で亡くなった、とか、そういった話は一切ない。
オフィスビル自体にも曰くは全くないという。
飛び降り自殺もない。殺人事件もない。怪しげな宗教団体もない。
怖い話にありがちな、ビルの建つ土地には元々○○が、とか、ビルの入口の方角が鬼門で、といった話もない。
しかし。
・・・
仕事終わり。
K先生は職員室で雑務を片付けながらコーヒーカップを傾けていた。
「お疲れ~」
同僚のF先生が職員室に入ってくる。
「あ、お疲れさまです」
「いや~、やっと○○君帰りましたよ」
「今日も長かったですねえ」
その予備校では授業終了後の居残り学習が許されており、講師たちは日替わりの交代制で居残りの生徒を見張る番をしていた。
当然といえば当然かもしれないが、予備校には勉強熱心な学生たちが集まっているため、生徒たちが居残りをする時間は一様に長い。
授業の終了時刻そのものも、午後十時と遅めの時間だった。
そのため、見張りの講師が最後の生徒の帰宅を見届ける頃には、日付が変わる直前の深い時間になっているのが常だった。
「いやぁ、みんなよくあんなに勉強しますよ」
「根詰めてますよね。ほんとすごい」
生徒の熱心さを話題にして談笑していると、
「しかしねえ。○○先生も言ってたんですけど、なんでしょうね、最近のアレ。屋上って…なんかあるんですかね?」
F先生の口からその場にいない先生の名前と、よく分からない話題が出てきた。
「え?なんですか?屋上?」
K先生が思わず訊き返すと、F先生の方もキョトンとした顔をしている。
「え、K先生言われたことないですか?」
・・・
F先生曰く。
教室で居残りの生徒たちの見張りの番をしていると。
生徒たちが、ふ、と天井を見上げる瞬間があるのだという。
切れかけた蛍光灯が点滅しているのか、はたまた水漏れか…そう思い講師も天井に視線を遣るが、特に異常は起きていない。
気を引くような物音も、少なくとも講師の耳には聞こえてこない。
そうこうしているうちに、生徒たちは顔を机の方向に下げて勉強に戻る。まるで、何事もなかったかのように。
そんなことが何回も起こり、見張り番の講師たちも徐々に気になってきたある日。
とある講師が、生徒が天井を見上げたタイミングで
「どうした?なんかあったか?」
と訊いてみたという。
すると。
「…先生、屋上に誰かいますか?」
生徒は神妙な面持ちでそう訊き返してくる。
「え?…いやあ…誰もいない…んじゃないか?いや、俺らが管理してるわけじゃないから正確には分からないけど、でも屋上に通じる扉は施錠されてるし…」
当然と言えば当然だが、このビルの屋上は建物の所有者の管理下にあり、予備校は管理に全く関与しておらず、予備校の中に屋上に通じるドアの鍵を持っている人間はいない。そのため、生徒や講師といった予備校の関係者が屋上に登ることはほぼ有り得ない。
また、ビルの屋上に登るための扉は、教室外の廊下の突き当りにある短い階段を上った先にある。そこを誰かが通ってドアを開ければ、その音は見張りの番をする講師たちの耳にも届くはずだった。
「それに…こんな時間に屋上に上がってる奴なんていないだろ」
そもそも授業の終了時刻が午後十時、生徒たちの居残りは時間が長引けば二十三時を越えても終わらないこともままある。
そんな夜の深い時間にわざわざビルの屋上に上がる人間がいるとは思えない。
そのように講師が答えると。
「う~ん…そうですよねえ…」
生徒はそう言って、釈然としない表情で会話を打ち切ってしまう。
・・・
そんなことが、居残りの番をしている間に何回も起こっているのだという。
不思議なことに、生徒たちは天井を見上げた理由を全く話してくれない。
普通ならば、「え、でもなんか物音がしましたよ」とか、「足音みたいなのが聞こえるんですけど…」といった、彼らが”屋上に誰かいるかもしれない”と感じた理由を述べてもおかしくないはずなのだが、生徒たちはそうしたことを一切せず、みな首を傾げたまま会話を打ち切ってしまうのだそうだ。
「…え、K先生、本当に一回も言われたことないですか?屋上に誰かいませんかって」
「いやあ…今のところないですけど。それいつ頃の話ですか?」
「いつ頃っていうか、二カ月ぐらい前からずっとですよ」
「え!?そんな続いてるんですか!?」
ひとしきり話した後に。
「う~ん…やっぱりみんな勉強のし過ぎでちょっと疲れてるんじゃないですか?」
「そうですよねぇ…俺らの耳には何も聞こえてないんだもんなあ」
「まああれだけ自分を追い詰めてたらね。多少はおかしくなっちゃいますよ」
そのように結論付けて話題を終えたという。
◆
その会話からしばらく経った頃。
予備校の近隣地区にある様々な学校の試験が、たまたま同時期に重なってしまった。
当然だが、試験に出題される問題の範囲は学校によって全く異なる。
そのため講師たちはみな各校の試験範囲の対策や、より一層熱の入った生徒たちによる長時間の居残り勉強への対応に追われることとなった。
やることがあまりにも多く、講師たちは休みすら取れなくなった。文字通りの激務である。
生徒はみな自らの意志で予備校に通っているだけあって、場の空気を乱さない善良な青少年ばかりだ。だがいくら生徒たちが手を焼かせない”良い子”たちであろうと、心身を削るような熾烈な忙しさの中に置かれれば疲労やストレスが溜まっていくことは避けられない。
もちろんK先生も例外ではなかった。
日々に忙殺されるうちに、徐々にぶつけどころがない苛立ちが精神と身体に蓄積されていく。
疲労困憊の毎日が続いていたある日のこと。
K先生に居残りの番の担当が回ってきた。
教室には何人かの生徒が残っていて、みな静かに勉強をしている。それを眺めつつ、K先生は担当教科のテストの採点を進めた。
二十三時。二十三時半。時計の針が進むにつれ、教室の中にいた生徒たちが徐々に帰っていく。
「僕、もう帰りますね」
「おう、お疲れ。もう遅いから気を付けて帰れよ」
とはいえ、まだ幾何かの生徒は教室に残って熱心に勉強を続けている。
(あれ…眠いな)
そうこうしているうちに、K先生は自らが眠くなっていることに気付いた。
(お、いかん。これめちゃくちゃ眠いぞ)
ここ数日の多忙のせいだろうか。仕事中とは思えないほどの強烈な眠気に襲われた。
勿論、理性では非常にマズい状況だと理解している。さすがに仕事中、しかも夜遅くまで教室に残っている生徒たちの見張りの最中に眠るわけにはいかない。
(…うっわ、ヤバい…外の自販機でコーヒーとか…買って来た方が…)
「じゃあ私、帰りますね」
「…あ、お疲れ。気を付けてな…」
生徒に挨拶を返している間にも、眠気はどんどん強くなる。
(いや、…ここで寝るのはマズいって…コーヒー…)
勿論、理性では非常にマズい状況だと理解している。勿論、理解している。…さすがに仕事中、しかも夜遅くまで…何とかして抗わなければいけないのもわかる…しかし…。
(…ダメだ…)
K先生は、仕事中にもかかわらずそのまま眠りに落ちてしまった。
そんなことは後にも先にもこの時だけだった、という。
「…先生。先生!」
自分を呼ぶ大きな声で目が覚めた。
果たしてどのくらい眠ってしまったのか…そんなことを考えながら目を開く。
教室には二人の女子生徒しか残っていない。
しかし、その二人の様子が異様だった。
「先生!ねえ、先生!」
一人の生徒は自分の方を向いて、緊迫した様子でしきりに何かを訴えようとしている。
そしてもう一人の生徒。
彼女は席に座ったまま、何も言わずに全身をガタガタ震わせて俯いている。尋常じゃない恐怖を感じているのが一目で解る状態だった。
「え、えっ、どうした?」
ただでさえ寝起きでまだ頭の回転が鈍いのに、目の前には訳の分からない状況が広がっている。K先生は困惑しながら返答した。
「ねえ!屋上!屋上からすごい音がしてる!」
そう訴えかける女子生徒に、え、音ってどんな音?と返そうとした次の瞬間。
ドーン!
凄まじい音が教室内に響いた。
何者かがコンクリートブロックを猛烈な勢いで叩きつけているかのような、硬い響きの強烈な音だった。
「え、ちょっ、ちょっと待って何これ、え?」
K先生が困惑していると、しばらく間を開けてもう一度
ドーン!
やはり強烈な音だ。
音は間違いなく天井の方から聞こえる。
このままだと、衝撃で天井に穴が開いてしまうのではないか―そんな荒唐無稽な想像が脳裏に過ぎる。
思わず目の前の女子生徒に尋ねる。
「え、この音いつからしてんの!?」
「さっきから、さっきですよぉ!」
とにかく普通じゃない状況が繰り広げられているのは確かなのだが。
(ん、さっき?…いや、俺こんなすごい音してたのに起きなかったの?)
K先生はそのことが若干引っかかった。いくら強烈な睡魔に襲われていたとはいえ、こんな大きな音を聞いて目を覚まさずにいられることが可能なのだろうか?
とにかく、何らかの対応はしないといけないな…と思ったものの。
(はて、どうすりゃええんだ?)
ふと、K先生は対応と言っても自分が何をすればいいのか全く分からないことに気付いた。
先ほども書いたように、予備校の関係者は屋上に通じるドアの鍵すら持っていないのだ。
とはいえ。
(でもなあ…とりあえず様子を見ないわけにはいかんよなあ…)
なにせ、こうやって対応を考えている間も天井からは凄まじい音が断続的に響いているのだ。目の前には怯える生徒たちもいる。何もしないわけにはいかない。
「よし、俺ちょっと見てくるわ。お前らはここで待ってろ」
生徒たちを教室に残し、廊下に出る。電気を点けないままで、廊下の突き当りにある屋上に繋がる階段を目指した。
暗い廊下を急ぐ。その間も、頭上から断続的に音が響く。
(いやこりゃすごいぞ…最悪警察呼ばないといけないんじゃねえのかこれ?でも階段着いたところで施錠されてんだよな…どうしよう?…うーん、どっちにしろ一回確認するだけしないとな)
そんなことを考えているうちに、廊下の突き当りに辿り着いた。さて、と階段の上を仰ぎ見た瞬間。
(あっ)
K先生の体はそのままの形で固まった。
階段の先。
恐らくは施錠されている屋上の扉。
その前に。
人間がいる。
背丈からして、恐らく自分たちが普段教えている生徒たちと同じぐらいの歳の頃の人間。
一人じゃない。
六、七人はいる。
そいつらが身を寄せ合って。
こちらに背を向けて。
屋上に通じるドアにぴったりと張り付いていて。
まるでドアの向こうにある屋上の様子を覗き込んでいるようだった。
もう少し近付けば、そいつらの服装などを確認することが出来そうではあったが。
それが、どうしてもできない。
K先生は生来から心霊や妖怪といった、オカルトの類を全く信じていないタイプだった。
しかし。
(いや、あれはヤバいって…!)
あいつらは不審者とか悪戯とか、そういうのではない別の「何か」だ、ということが直感的に分かった。
無論、あいつらに声など掛けられない。
そのまま踵を返して教室に駆け戻った。
教室に入り、女子生徒たちに声をかける。
「おい!お前ら!逃げるぞ!」
まずビルから出なければいけないと考えた。
しかし、最初にK先生に声をかけてきた生徒の方はともかく、席に座っている方の女子生徒は未だに体を震わせたまま硬直している。もはや席を立つことすら難しそうな状態だ。
「え、先生どうしたんですか!?屋上は!?」
声をかけてきた方の女子生徒が訪ねる。
「いやね、ちょっと屋上…屋上は…」
K先生は答えに窮した。まさか、なんかよく分からない何かが六人ぐらいいて見に行けない、などと言えるはずもない。
こうしている間にも天井からは強烈な音が響いている。
「…うん、まあ、あとで説明する!だからとりあえず出よう!な!?」
とりあえず、突っ伏してガタガタ震えている方の女子生徒をどうにかしなければいけない。
「大丈夫か?うまく立てないなら俺がおんぶしてやるから、な?」
そこではじめて、震えている女子生徒が言葉を発した。
「先生!先生!怖い!!!」
「いや、俺も怖いよ!!!な!?だからとりあえず出よう!立てるか?」
本音を言いつつ、なんとか女子生徒をなだめようとした、その時。
彼女がもう一回口を開いた。
「先生…先生!私の隣にいるこの子、誰なんですかね!?」
(え?)
…目の前で震えているのは、確かにこの予備校に通っているRという女子生徒だ。
それは分かる。
その横にいる、最初に自分に声をかけてきた女子生徒…。
こいつ、誰だ?
その瞬間。
さっきまで生徒だと思い込んでいた、全く見覚えのない少女が、口角を上げて。
やがて、悪戯がバレた子供のような無垢な声で、けたけたと笑い出した。
(うわあ!!!)
様々なことを考える前に体が動いた。
震えるRを連れてなんとか教室から飛び出した。そのままの勢いで暗い廊下を走り、ひたすらにビルの出口を目指す…。
ビルの外に出てやっと落ち着いた二人は、互いの身に何が起こったのか、話を突き合わせてみることにした。
・・・
R曰く。
勉強に集中していて、ふと気づくといつのまにか隣にあの少女がいたのだそうだ。
(え、何?この子誰?)
知らない少女がいつの間にか隣にいる、という状況に困惑していると、彼女はRに話しかけてきたのだという。
見知った友達に話しかけてくるような楽し気な態度で、学校生活の話題をこちらに振って来る。
「○○先生がさあ…」
「そういえば○○君がね…」
「あとさあ、○○ちゃんがさあ…」
それは間違いなく、Rが通っている学校に在籍する人々、あるいは彼女のクラスメイトの話題だった。
話の内容も、全て実際に学校で起こっていた出来事だ。
しかし、そんな身近な話題を楽しげに話している目の前の人間に、全く見覚えがない。
それが恐ろしくてたまらなかった。
暫く恐怖に耐えていると、突然に少女が騒ぎ出した。
「えっ…あれ?…え、なんか屋上からすごい音がする!え、ヤバい!K先生起こさなきゃ!先生!先生!…」
…しかし、K先生の耳にも聞こえていたあの強烈な音は、Rには全く聞こえていなかったのだという。
・・・
「…だからもう、全部がわけわかんなくて…ものすごい怖くなっちゃって、それでずっと震えてたんです…」
「え~そうなの?…うわ、もう中に戻りたくねえ!」
不運なことに、いま予備校に残っている講師はK先生のみである。
しかし、流石に一人でビルの中に戻ることはできない。怖い。
困ったK先生は、予備校の近所に住んでいて、なおかつ独身でヒマだった同僚の講師を呼びつけたのだという。
二人でビルの中に戻ったときには、ドアの前の連中も見知らぬ少女も既におらず、天井から響いていた音も一切しなくなっていた。
そしてこの夜を境に、生徒が急に天井を見上げる現象もぱったりと止み、全てが平常に戻って行ったという。
なお、『忌魅恐』の冊子を発行した文芸サークルの取材によると、Rさんはその後も予備校に通い続け(流石に居残りはしなくなったようだが)、志望校に見事合格。
彼女は予備校の近所に住んでいたこともあって、志望校に通い始めた後も年に一回ほどのペースでK先生と連絡を取り合っていたようである。
冒頭に記したとおり、この予備校にも、予備校が入っているビルにも、曰くは一切ない。
しかし。
場所に曰くなどなくても、何もおかしなことをせずに日常を営んでいても、こうした出来事は突然向こうからやって来るものなのかもしれない。
時にはこの話のように、熾烈なかたちで。
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かぁなっき「…まあね、それ経験したら受験も怖くない、って話かもしれないですよね」
◇この文章は猟奇ユニット・FEAR飯のツイキャス放送「禍話」にて語られた怪談に、筆者独自の編集や聞き取りからの解釈に基づいた補完表現、及び構成を加えて文章化したものです。
語り手:かぁなっき
出典:"禍話Xスペシャル"(https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/669122947)より
禍話 公式twitter https://twitter.com/magabanasi
☆高橋知秋の執筆した禍話リライトの二次使用についてはこちらの記事をご参照ください。