禍話リライト「名傘」

 で、これあの…ちょっと、そこそこぞっとする話なんですけど。そこそこですよ。あくまで。

 Hさんは現在、妻のOさんと別居している。
 これは、二人が別居する少し前の話。

 その日は朝から雨が降っており、Hさんは傘を差して出勤した。

 Hさんが勤務先のスーパーから退勤する二十三時頃には、雨はすっかり上がっていた。
(さて帰るか~!…あー、そういや傘持って帰らないとな)
 Hさんは従業員専用の傘立ての方へと向かう。
(えーっと…あったあった、よいしょ…)
 自分の青い傘を傘立てから引き抜くと、
(…お?)
 妙なことに気付く。

 傘の持ち手の部分に何かが書いてある。
 よく見ると、それは自分のものではない何者かの名前だった。

 恐らく学校の学年と組。
 それに続いて、女性のものと思しき氏名。
 まるで、小学校に通う生徒が、他の生徒の傘と混同しないために書いたような、名前書き。
 …Hさんによると、名前の上に「■年■組」と書かれているのは分かるのだが、何故か数字の部分だけが「年」や「組」の文字、そして氏名と比べると―これは流石にわざとなのではないか、と疑うぐらいに―グチャグチャの震えた字で書かれており、そこだけ全く判読できない状態だったという。

 Hさんは首を傾げる。
 当然だが、これは自分で書いたわけではない。書かれている名前にもさっぱり覚えがない。
 だとすると、勤務中に誰かが悪戯をした、と考えるのが自然だが。
(…でもここまで来て…?)
 スーパーの従業員用の傘立ては、一般客からはまず見えない奥まった場所にある。
(ただまあ、外ではあるからな…)
 しかし一方で、この傘立ては店舗の中の従業員しか入れないスペースではなく、場所さえ分かれば誰でも行ける屋外に設置されていた。
 そのため、どこかの子供が遊びでスーパーの周りを探検しているうちに、この従業員用の傘立てを見つけて悪戯をした、という可能性も…まあ、低いながらゼロではない。
 しかし。
(だとしてもなんで俺の傘だけなんだ…?)
 周囲にある他の従業員の傘を一通り見てみたが、自分と同じような悪戯をされている傘は一つもない。

(え~なんか気持ち悪いな…これ捨てようかなあ…)
 Hさんは一瞬そう思ったものの、これは割と奮発して買った品質の良い傘だ。心の中に迷いが生じる。
(まあ、一旦家に持って帰って考えるかあ…)

「ただいま~」
「あ、おかえり」
「ねー聞いてよ、なんか気持ち悪いことあってさあ…」
 帰宅したHさんは妻のOさんに先ほどの出来事を話して聞かせた。

「…でさあ、なんか俺の傘だけこんな悪戯されてるってのも気持ち悪くない?」
 一通り話し終えたその時。
「え、ちょっとその傘見せて」
「え?あ、うん…」
 請われるままにHさんは傘をOさんに渡す。
 傘の持ち手の文字を確認したOさんは、怯えた顔でこう言った。
「ねえ、この傘捨てて」
「え?」

 HさんはOさんの様子に違和感を抱いた。
 確かに気持ち悪い体験ではあったが、一方で子供の悪戯と言われればそれまでの出来事でもある。
 なのに、目の前のOさんは異常に怖がっている。
 Oさんが何をそんなに怯えているのか、Hさんには見当もつかない。

「…どうした?」
「実はね、私が中学生の時にも似たようなことがあったんだよね」
「え、中学生の時って…何年前だよそれ」
「うん、まあだいぶ前なんだけど…とにかく似たようなことがあったんだよ。傘に勝手に名前書かれてさ。そしたらね、うちで飼ってたペットが、急に二匹死んじゃって…○○ちゃんと○○ちゃんって言うんだけど」
「え、二匹も!?」
「そう、二匹。…これさ、その時に書いてあった名前と一緒なんだよ」
「ええ~!?何それ気持ち悪っ!え、捨てよ捨てよ!」

 Oさんから話を聞いたHさんもすっかり怖くなり、数日後の資源物の日に名前を書かれた傘を捨てた。

 それからというものの、Oさんは随分と落ち込んでしまった。
「また嫌なこと起こったらどうしよう…」
「いや、多分大丈夫だよ」
 そんな会話を何回もした。
 Oさんは「傘に名前を書かれた」ことで、また自分の身近に不幸な出来事が起こるのではないか、ということを気に病んでいる様子だったという。
(まあ、あんなことあったら気になるよな。なんかかわいそうだな…)
 Hさんも彼女のことをずっと気に掛ける、そんな日々が一週間ほど続いた。

 そんなある日。
 たまたま別件でOさんの兄であるKさんがHさん夫婦宅にやってきた。

 久々に気心の知れた家族と会ったせいだろうか、Oさんの表情はいくらか和らいで見えた。
(よかったな~、これで気持ちが上向きになればいいけど)
 Hさんはそう思いつつ、同時にKさんに対して
(いいかK…傘の話すんなよ…思い出させるなよ…蒸し返すなよ…)
 とも念じていたという。…幸いKさんは傘の話をしなかったようだが。

 暫くして。
 Oさんが晩ご飯を買いにスーパーに行ったため、HさんとKさんで家に二人きりになるタイミングが出来たという。Oさんのいない今ならいいだろうと、Hさんは先日の出来事をKさんに打ち明けた。
「いやね、実はこの前こんなことがありまして…」

 自分の傘に書かれていた名前。
 Oさんの過去の体験。
 その二つの間の符号。
 そして、最終的に傘を捨てたこと。

 Hさんの話を黙って最後まで聞いていたKさんは、Hさんが話し終わると同時に、神妙な顔で
「ふーん…不可解ですねえ」
 と言った。
「ね?不可解でしょ?」
「そうですよ、だってうちペット飼ったことないんですよ?」
「え?」

 Kさん曰く。
 Oさん一家は一回もペットを飼ったことがないのだそうだ。

「え!?どういうことですか?だってペットの名前も言ってましたよ?○○ちゃんと○○ちゃんって…」
「いや、それがねえ…うちねえ、犬とか猫は勿論ですし、…例えば縁日で金魚すくいやったりとか、あと亀を安く売ってたりとか?ああいうのあるじゃないですか。そういう金魚とか亀とかすら飼ったことないんですよ」
「ええ…」
「…だから妹が何言ってるかよく分かんなくて…」

 …言われてみれば、Oさんは二匹のペットが亡くなった話をした時に「○○ちゃんと○○ちゃん」という名前こそ述べていたが、その「二匹のペット」がいったい何の動物なのか、という説明は全く無かった。

(…え~、どういうこと?怖…)
 怯えるHさんの様子に気付いたのか、Kさんがフォローするような調子で話し始めた。
「…あ、いやね、うちの妹って今は全然そんな素振りないんですけど、中学生ぐらいの頃はちょっと…夢見がち?というか、…なんていうのかな、何もない方を向いて一人でぶつぶつなんか話してる…そういうタイプの女の子だったんですよ」
「あ、そうなんですか?今の感じだと全然そんなイメージないですけど」
「そうですよね~。…あ、アルバム見たらわかると思うなあ」
 そう言いながら、Kさんは本棚にあった卒業アルバムを取り出した。

 まず、各クラスの生徒の顔写真が集められているページを二人で見る。
 当然ながら、顔写真だけではOさんが夢見がちな少女だったかどうか、ということは全く判別できなかった。
 ただ。
 Oさんの顔写真だけが、微妙に背景が違う。
 もしかしたら、クラスのみんなで顔写真を撮る日に欠席するなり早退するなりの何かがあって、Oさんだけ別日に写真を撮ったのではないか。
 Hさんはそう推測した。

「…まあこれじゃわかんないですよね」
「…ですね」
 Kさんは卒業アルバムを取り上げて、パラパラとページをめくる。
「まあ、クラスの集合写真見たら分かるんじゃないかな。あいつたぶん変な写り方してると思うから…」
 不意にページをめくる手が止まり。
「うわっ!」
 Kさんが急に小さく叫んだ。
「うわ、Hさんはこれ見ない方が良い!」
「え!?いや集合写真ですよ?見ない方が良いってこたないでしょ!」
 そう言ってKさんの手から卒業アルバムを引っ手繰ったHさんも、
「うえっ!?」
 Kさんと同じように叫ぶこととなった。

 クラスの集合写真。
 生徒たちが朗らかな表情で整列している。
 その中で、Oさんだけが傘を持っていた。
 生徒たちの頭上には抜けるような青空が広がっていて、何故Oさんが傘を持っているのか、その理由は全く分からない。
 そして。
 満面の笑みで集合写真に写るOさんが持っていた傘は、先日Hさんが捨てた傘と同じような、青色の傘だったという。

 それが直接の原因…というわけではなく、他にもいろいろな事情があったらしいが。
 兎に角、HさんとOさんは別居状態にあるのだそうだ。


◇この文章は猟奇ユニット・FEAR飯のツイキャス放送「禍話」にて語られた怪談に、筆者独自の編集や聞き取りからの解釈に基づいた補完表現、及び構成を加えて文章化したものです。
語り手:かぁなっき
聞き手:加藤よしき
出典:"シン・禍話 第二十六夜"(https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/700752572)より
禍話 公式twitter https://twitter.com/magabanasi

☆高橋知秋の執筆した禍話リライトの二次使用についてはこちらの記事をご参照ください。