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『祓除』:テレビと私たち

 大森氏が『SIX HACK』であらためて問うたのは、テレビというメディアの構造の危うさだったように思う。
 思えば『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』もあきらかに問題が生じている現場を「ご家庭潜入バラエティ」に仕立て上げてしまう無神経さ(の裏の悪意の可能性)が作品の重要なキーになっているし、『このテープもってないですか?』もテレビという一方通行のメディアの拡散性が名前の無い呪術を完成させてしまうという構図を作り出した作品だった。大森氏の作品には必ず「テレビというメディア」に対する批評性が潜んでいる。
『SIX HACK』は「作り手がパラノイアに侵された状態で番組が製作されるとどうなるのか」を大胆にも地上波の電波を用いてシュミレーションした、大森氏の作品に常に潜む批評性を一番エッジーな形で表現した作品であることは間違いないだろう。

『祓除』は事前番組(ごく僅かに音声や映像といった内容を変えた再放送「事前番組(1)のコピー」も放送)、「テレ東60祭@なぜか横浜赤レンガ」で行われたリアルイベント、そして事後番組という三つの部品で構成された作品である。
 このうち「事前番組(1)のコピー」以外はすべてネットで映像配信された。リアルイベントのアーカイブ配信は現在はU-NEXTのみで視聴可能の状態だが、事前番組と事後番組はTVerだけでなくテレ東の公式youtubeチャンネルにもアップロードされたので、それなりの期間の視聴が可能と思われる。
 この文章を読む前に事前・事後番組のみだけでも視聴することをお勧めする。この作品の心臓部は実はリアルイベントではなく事後番組だった、とも言えるので。

 人気作家で大森氏とは『このテープ~』『滑稽』以来のタッグとなる梨氏、『近畿地方のある場所について』で鮮烈なデビューを飾った背筋氏、『フェイクドキュメンタリーQ』など多くのホラー映像作品を手掛ける寺内康太郎氏、多くの大森作品で構成を務めるさかもと良助氏が構成や演出で参加。
 また「事前番組」「事後番組」のスタッフクレジットには『フェイクドキュメンタリーQ』で編集を務める遠藤香代子氏や同作の制作陣に名を連ねる福井鶴氏、人気心霊ビデオ『NOT FOUND』シリーズを手掛けた古賀奏一郎氏の名前も確認できる。
 タイトルロゴやメインビジュアルは『SIX HACK』から引き続いての参加となるFrantz K Endo氏が手掛けた。

 以上の情報を与えられた時に、我々は『このテープ~』路線のホラーモキュメンタリーなのだろう、という予測を立てることになるだろう。このメンツを並べられてそのように考えない人の方が少ないのではないか。

 実際のところ、作品としては「その通り」ではある。
 事前番組ではイベントで「祓除」を行う祓除師のいとうよしぴよ氏の紹介や「祓除」が必要になった幾つもの不気味な「要因」が並べられた。
 リアルイベントでは「祓除」が必要な恐ろしい映像の数々がスクリーンで流され、イベントの冒頭とラストではいとう氏による「祓除」が行われた。最後の「祓除」でスクリーン越しに写されるステージ上の模様に異変が起き(これは別撮りの映像をそれっぽく流していたもので、会場だともっとより分かりやすかったとのこと)、そこでイベントは終了する。
 梨氏・背筋氏両者のフレーバーが散りばめられた邪悪なストーリーラインや寺内氏の演出が冴える不気味な映像群によって、ここまでだけでも非常に上質なホラー作品に仕上がっている。

 しかし。11月29日の深夜(あるいは11月30日の早朝)に放映された事後番組で、その様相が一変する。

 ざっくりと書けば、これは「作り手自身がフェイクのつもりで作っていた物語が本物の何かを呼び込んでしまう」作品である。
 事後番組ではまずイベント終了後に舞台裏で起きたトラブルが提示され、リアルイベントまでの間に築いたストーリーラインの全てが「フェイクである」ことが改めて説明され、挙句イベントの前に演者と制作陣との間で行われた打ち合わせ(1)やいとう氏の出自にまで話が遡ってしまう。この出自は事前番組で流された祓除師としての架空の出自ではなく、あくまで俳優として、あるいは一人の人間としての「いとうよしぴよ」の出自である。彼の出自を取材するシーンで一瞬写される昔のいとう氏の写真が「事後番組」のネット配信時のサムネイルに設定されているのが意味深(※2)。
 それらの狭間にテレ東宛てに届いた抗議文の数々、イベントを見た研究者による警鐘、イベント後に投稿されたスタッフ陣を批判するいとう氏のSNS投稿(このポストは実際によしぴよ氏のXアカウントに投稿され、一瞬で消えていたという手の込みよう!)といった数々の要素を配置しつつ、最終的には制作陣が改めてよしぴよ氏の自宅に赴く形となり、そこで今作の仕掛けの全てが明かされる展開となっている。

 この事後番組において最も象徴的なのが、大森氏や寺内氏といった本来ならカメラの裏から出ることが無い制作陣がカメラの前に登場することだ。
 さかもと氏も一瞬ながら顔を出し、更には顔出しを行っていない梨氏・背筋氏までもがモザイク越しながらも姿を見せるという徹底ぶりだ(特に梨氏は映像はもちろん、トークショーなどのリアルイベントですら姿を見せない姿勢を徹底しているため、モザイク越しとはいえ映像に登場するのは異例中の異例である)。
 自分自身を題材とした『SIX HACK』ですら再現VTRの仮名の登場人物という間接的なかたちでしか姿を現していない大森氏(実は一瞬だけ本人と思しき声が入っている個所があるが…)が、ここではっきりと姿を現したことに大きな意味があるのは明白である。

 何故ならば、この事後番組の終盤では(いとう氏自身が映像内が語るように)制作陣が描いた絵に沿って舞台上で演技を行っていただけの演者であるはずのいとう氏が、何故かその制作陣よりも矢面に立たされることになってしまう矛盾が表現されているからだ。

 思えば、これは全てのテレビ番組に共通した脆弱性である。
 テレビ番組に出演するタレントは多くの場合スタッフの意図に沿って振舞っているにもかかわらず、問題が生じたときに制作陣よりも非難される可能性が高いという歪みが存在する。
 通常のドラマと違って(というか『おしん』放映時の様々なエピソードでわかるように、かつてははっきりと作り物のドラマですらそのようなトラブルは起きていた)「架空の物語」と「現実の出来事」の距離感が意図的に近づけられているバラエティやモキュメンタリーではよりその構造の危険さが表出しやすい。
『SIX HACK』ではあくまで様々な要素の一部分として扱われていた(※3)テレビ番組の制作者と演者の関係の危うさに対する批判が、いとうよしぴよ氏という「弱い立場」にならざるを得ない存在を演者としてセレクトした『祓除』ではかなり前面に出ているように感じる(しかし同時に、この歪みをテレビ上で自己批判することはモキュメンタリー作品ぐらいでしかできない、という矛盾も同時に表現されているとも思う。それは今作も『SIX HACK』も同じである)。
 その批判を行う上で、演者ではなく作り手がカメラの前に姿を現すことには当然ながら強い必然性がある。いとう氏がSNSに制作陣を批判するポストを投稿するに至った際の自らの複雑な胸中を吐露するシーンで、大森氏の神妙な表情が大写しになるのは明らかに意図的な演出だ。

 そしていとう氏がモキュメンタリーの構造に対して発言するシーン。あの瞬間、確かに弓矢の先は私を含めた視聴者全員に向いていた。
 様々な映像や要素を与えて考察を煽る作り手、与えられた映像や要素を並べて無邪気に考察する受け手。モキュメンタリーの演者がその間で必然的に板挟みになることをさりげなく提示するあのシーンには流石にぎくりとさせられた。

 更に作品の構造―「作り手自身がフェイクのつもりで作っていた物語が本物の何かを呼び込んでしまう」ストーリーライン自体が、『SIX HACK』と同様の「一方通行のメディアに対する批判的な問い」にもなっている。
 今作の恐怖は一見「安全だと思っていたものが安全ではなくなる恐怖」に見えるが、実際のところは「そもそも今まで安全だと思っていたものが本当に安全だったかどうかわからないことに気付かされる恐怖」だ(この構図は梨氏の作品の姿勢と強く共鳴しており、氏の起用はかなり強い必然性を持っている)。
 そう、私はテレビが好きだからこそ言い切るが、テレビは安全ではない。テレビっ子だった私は、テレビの歴史上で起こった様々な不祥事をすぐに思い浮かべることが出来る。やらせ、誤情報、恣意的な編集、演者への中傷―ここでは具体的な名称に触れることは控えるが。
 その「テレビの危険さ」をホラーの文脈を用いて極限までデフォルメして、更にリアルイベントという取り返しのつかないプロセスを挟んで実感しやすく強調したのが『祓除』という見方も可能だろう。それをテレ東の60周年の節目のイベントに持ってきたこと自体が強烈な批評性を帯びている。

 そういえば、リアルイベントの中でも明らかにテレビに対する批判が含まれた映像が一本上映されていた。最後に上映された「担当者不明のビデオ」だ。
 言うまでもなく「ノストラダムスの大予言」は恐らく90年代に於いて最も広く流通した陰謀論であり、「ノストラダムスの大予言を信じ込んだ男」という陰謀論で狂った人間をモチーフにした題材は『SIX HACK』からの流れが感じられ、故にリアルイベントで流された映像の中で大森氏の関与を最も強く感じる映像だった。
 私はあの映像を見て、かつて読者投稿系の漫画雑誌で読んだ「ノストラダムスの大予言を信じ込んで散財した人」の話が頭の片隅に過ぎった。映像の中の男性ほど極端な形ではなくとも、似たように狂った人はたくさんいると思う。
 そんな「ノストラダムスの大予言」という陰謀論の流布にテレビや書籍といった既存のメディアが一役買ったことは間違いない。このモチーフを記念式典の場に掘り返して引っ張り出してきたのは意図的なことだったんだろうな、と私は考えている。
 なお『祓除』開催二日前の同時刻、テレ東60祭の特設屋外ステージでは「やりすぎ都市伝説」のイベントが開かれていた。

 しかし、こうした批判の構図を散々繰り広げておきながら、事後番組はいとう氏が入手した奇妙なUSBメモリに収められていた「作中で起きた怪異の元凶であろう映像」をそのまま垂れ流す、というあまりにも危険かつ無情な終結を迎えてしまう。

 そして『祓除』三部作は、暗転した液晶画面を映す映像の背後で、何やら不気味な音声が流れる映像で幕を閉じた。
 その液晶画面にはカメラを持った人物が写り込んでいる。髪形や輪郭からして恐らくその人物は大森氏本人であろう、ということが分かる。
 液晶画面を撮影する人物を映り込みで映像の中に収める、という構図からは、「その撮影者は間違いなく直前まで流れていた危険な映像を、何らかの意図を持って地上波に放った」ことが示唆されている。それが大森氏である、ということはつまり―ここから先は各々で考えるべきことなのだろう。液晶画面の反射によって、カメラのレンズが他ならぬ視聴者に向けられていることまで含めて(※4)。

『祓除』開催決定時のプレスには、「これまでに人々のあいだで穢れや禍とみなされてきた映像や物品を無害化するための式典」という文言がうたわれていた。
 しかしこのイベントの「という設定のイベントで演者に架空の”祓除師”を演じさせたことによって、全く別の新たな厄災が生まれる」構図が示したのは、テレビが歴史を重ねる上で「あちら」と「こちら」の関係性のあいだに無数に生まれた「穢れや禍」は最初から洗い流せないものだった、ということだ。
「大森氏がモキュメンタリーのフィールドで活躍するクリエイターを集めて作り出したのは、本物の呪物に近いヤバい作品だった」というのが視聴後の感想だったが、冷静になりこのような文章を書くに至った今になってみると、この作品の中にある「呪い」は確かにホラー作品としての文脈の「呪い」でもあるが、「もはや祓うことなどできない厄を間接的な形ながら、しかし確かに白日の下に引きずり出す」という、非常に現実的な「呪い」でもあるのかもしれない。
 テレ東の60周年に対して素直に「おめでとう」という言葉が放たれていた祝祭の場で、いとう氏の口を借りて今作の制作陣が放った「おめでとうございます」は全く真逆の呪いの文言だったことも忘れてはならないだろう。

 余談ではあるが、『祓除』開催前の2023年9月末~10月初頭には『フェイクドキュメンタリーQ』がyoutubeにてリアルタイムで映像を配信する生配信を行い、その生配信を素材にしてモキュメンタリーを作るという意欲的な作品を制作している。
 異なる手法で「現実と架空の境界線を意図的にぼかす」という手法を用いた作品が同時代性を持って登場したこと、その両者に寺内氏が関わっていること、そして『Q』の当該回に「トロイの木馬」という印象的な文言が掲げられたことは、あまり関連付けるのもアレだが、しかし特記に値するであろう出来事だと筆者は考える次第である。

 調和と設定が完了しました。おめでとうございます。(※5)

※脚注

※1:いとう氏が事後番組のネット配信開始後に(本当の)オフショット写真を投稿しており、その中に事後番組はあくまでそうした「テイ」のフィクションとして撮影されていたことを示していると思しき記述があるため、流石に本物の打ち合わせではないようだ。
 なお、本文中でも軽く触れたとおり事後番組には宮崎武一という研究者が登場するが、これはエンドクレジットでもさりげなく示されているように、俳優の山下徳久氏が演じている架空の人物である。
 いとう氏が爆速で消したはずのポストの写真が残っている点(逆にあの爆速で消えたポストのスクショをしっかり取っていた視聴者がなんなんだ?)なども含めてこの「事後番組」そのものがフィクションであるという提示はかなり丁寧に成されていたように思うし、同時にその提示が視聴時はなるべくノイズにならないようにちゃんと配慮されていた印象も強い。

※2:今回記事にふたつの動画を埋め込んで初めて気付いたのだけれど、「事前番組」のサムネイルが「”架空の祓除師としてのいとうよしぴよ”の子供時代の写真」で、「事後番組」のサムネイルが「”生身の俳優としてのいとうよしぴよ”の若手時代の写真」になっているのはかなり明白な対比だ。

※3:これは『SIX HACK』という作品の構造上仕方ないことではある。
 そもそも『SIX HACK』は「パラノイアに侵された作り手が作った番組が流通してしまう危険性」をコンセプトにしているため、この要素をそこまで大きく取り上げることはできない。しかしその『SIX HACK』の再現VTRの中でも、「視聴者が行う無邪気な考察の中にある危険さ」に対する言及がさりげなく行われていることは留意しておきたい。
 また知名度が非常に高いタレントで、番組の崩壊に対してブチギレて強引に降板することが可能な立場だったユースケ・サンタマリア氏を起用することで、その「立場」すら見えなくなる作り手のパラノイアを強調した『SIX HACK』、タレントとしての知名度の関係上立場が弱くならざるを得ないいとうよしぴよ氏を起用したことによって、いとう氏自身、制作陣、果ては視聴者もろとも巨大なトラブルに巻き込まれていく『祓除』、結果的にこの両者の並びにはかなりエッジの利いた対比が生まれている。

※4:事後番組の内容やこのラストカットから線を引くと、事後番組放映の告知時に製作されたサムネイルが(おそらく)いとう氏の目をズームアップした画像であることの意味も少し分かって来る。これは「見る側」と「見られる側」の間に潜む災いや厄にまつわる物語であるからだ。
 更に事後番組におけるフェイクの内情が明かされる展開や、いとう氏がモキュメンタリーついて言及するシーンにおいて、「見る側」と「見られる側」の立場はほんのつかの間だが、しかし確かに逆転するのだ。

※5:この文章では作品の構造に言及したためあまり文字数を割けなかったが、「テレビ番組とそのイベントが呼んだ”本物”によって視聴者の”調整”が完了してしまう」という筋書きは一本のホラーとしてあまりにも良すぎる。
 ここら辺、梨氏と背筋氏が「二人とも参加した」ことがかなり良い感じに効いている…気がする。この二人には今後もどんどん共作して欲しい。私は二人ともファンだから…。映像内で二人が仲良さげだったの嬉しくなっちゃった…。
 これは余談なのだけれど、事後番組の映像内における梨氏と背筋氏の身長差を誰かが「ポプテピピック」と表現していて面白かった。本当に余談だな。

※?:大森氏、次作では遂に皆口氏を地上波に引っ張り出してくれるのではないかと密かに期待しているのだけれど…どうなんだろう。