フーガ小説 Q
(一部ネタバレがあります)
出版社の帯コピーに
「圧倒的な「いま」を描く、著者史上最大巨編」とあるが、内容はまさにそのような小説だが、
私が参ったのは、そこよりも小説の進み具合だった。ここではその点を取り上げたい。
それは、音楽で言うフーガ形式、それもストレッタと言うべき、物語の構造だった。
ストレッタとは、フーガ(旋律がバリエーションを持って繰り返され、変化していく形式)の終盤部などで前の旋律が終わる前に新しい旋律が被って立ち上がることだが、この小説も同様に、ストーリーの主旋律が盛り上がりを見せる、まさにその時(結末を見せる前に)、時間が飛び、ほかの旋律、サブストーリーに移る。
物語が中折れに終わるのだ。
例を挙げれば、小説の舞台は東京と千葉県の湾岸部だが、千葉県の物語が緊迫度が上がったタイミングで場面が東京に変わる。時間も変わっている。千葉県の元のストーリーは、頓挫したりして、途中で回収される。寸詰まりなのである。
音楽のフーガ、そのストレッタの場合、旋律が中途で変わることで緊迫感が出るものだが(ストレッタとは緊張するとかのイタリア語だ)、Qの場合はペースも変わり、むしろ弛緩から再スタートとなる。
こう言う物語の変遷が2度、3度ある。
その度、読み手は、シーシュポスの岩のように積み上げた緊張を解かれて別のサブストーリーを辿る。
緊張を解かれた際の感想は、「え、そうなるの?」と言うものであり、裏切られたとの思いすら起きる。
ただこれをくり返すということは、その「裏切られた感」も計算の内ということである。
途中で変調される、個々のサブストーリーは緊迫度高く、主旋律としてそのままラストに至っても成功と評される内容、養分がある。
それをあえて捨てて、別のサブストーリーが立ち上がってくる。
作者にどういう勝算があるのか?とすら思えてくる。
私は3分の2位読み進めた時に、それはちょうど正月三ヶ日のラストデーだったが、このまま読み進めていいか、正直迷った。
これだけの「犠牲」(ページ数600のボリュームではなく、途中で端折られたプチ感動の山々)を思って、これから明らかにされるラストへの期待値は上がりまくる。
それはもはや終幕へのハードルにすらなっていた。
「生半可なラストでは許さないからな!」
とも、
「がっかりする位なら、ここでやめた方がいいのでは?」
とも思った。
こういう複雑な心境になるのは、滅多にないことだ。
で、
最後まで読むと、今述べたような「犠牲」を遥かに超えた感動と結末が待っている。
それは100%保証します。
凄まじいばかりの、そしてまさかのエンディングです。
おまけにクライマックス後の終章、最後の最後で主人公の一人が仲間に抱く思い、抑制された言い回しがまたいい。
意外とここも泣かせる。
それまでがハードでスリリングであるがゆえ、あったかい涙が出る。
ここもうまいと言わざる得ない。
映画「シネマパラダイス」のラスト、成功した映画監督が里帰りするシーンで、古くから土地にいたよく知らない人に呼び止められた時に、監督にツレなく「知らない」と答えさせる、そういう大人びたセリフのセンスを感じる。
このタイプの小説で最初に読んだのは、福永武彦の「死の島」だった。これもストーリーが細切れに展開されながら、エンディングに向かう。それとはまた異なる構造で比較はできないが、作者が手練れであることは言うまでもない。
圧倒的なストーリー力である。
音楽やダンス、ネットアイドル、推し、清掃業といったまさにいまが満載なのは、最初に述べた通り。
600ページ読むことが報われる。
あっというまの時間だが。
Q 呉勝浩 小学館