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限界アイドルオタク社会人、大学生になる。#10 講義は『街中』で行われる…?街のこれからを探求する「自由が丘とブランディング」【産能通信】

皆さんこんにちは。ちゃそぴです。

またも更新が遅れてしまい申し訳ございません…。いやはや、もう9月ですね。
僕はこの前宇多田ヒカルさんのライブに初めて生で鑑賞してきました。デビュー曲であるtime well tellから始まりAutomaticに終わったこのライブは自分が青春時代に聴きまくったどれも有名な曲ばかりがセトリに組み込まれていました。感銘に浸りながら、ライブ終わりに彼女が「これまで楽しいことも悲しいこともあったと思うけど、明日から頑張って生きていこうー!」という言葉がシンプルながらに温かい言葉として胸に刻まれました。世界が誇る日本のトップアーティストなのにMCでも人間味があってどこか不器用なところが垣間見れて…。語れば長くなりますが言えることはただ一つ「宇多田ヒカル最高!」な気分です(小学生並みの感想)。

さて時を戻して2ヶ月前の話に(まーた更新サボっとる)
筆者は6月8~9日に行われた「自由が丘とブランディング」という産能通信でも人気のある科目を受けてきました。通学スクーリングが必至となるこの科目では、「自由が丘という街」をテーマに街の特徴と今後の課題について考えていく講義内容となっております。担当講師はテキストの著者である岡田和弥先生と西村康樹先生です。

自由が丘というと「オシャレ」「若者の街」というイメージを持つ人が多く、2024年2月に発表された「SUUMO住みたい街ランキング2024 首都圏版」では27位にランクインして毎年の常連となっております。当時は決して恵まれた立地ではなく、周辺には農地で溢れていた今とは正反対のド田舎であったこの街がいかにして発展したのか、そしてそんな自由が丘という街の現状は何なのか、学んだ内容をここに書き連ねていきたいと思います。

■筆者の簡単な自己紹介
・産業能率大学通信教育課程 ビジネス教養コース3年次(23年10月編入学、来月で4年次に)
・28歳(今月で29歳ダヨー)独身の男。横浜出身のどこにでもいる会社員(システム系)
・過去にIT系、金網製造メーカーにて営業経験あり
・専門卒。今後の転職への準備と大卒資格を得たい為に実費で産能入学を決断(両親は共に大卒資格なし)
一応アイドルオタク。主に日向坂46と東京女子流現場にいます
・その他野球、音楽、ドライブなどが好き(ここはマチアプではありません)


農地から全国区の知名度に仕立てた先人達の努力

栗山久次郎氏の銅像(自由が丘 熊野神社。Webサイト「自由が丘スタイル」より)

まず自由が丘の街について歴史から紐解いていきたいと思います。

元々自由が丘は農村の街で「衾(ふすま)村」という地区にありました。辺りには大根畑や竹藪などが生い茂っており、特にタケノコの村としてそれなりに栄えておりました。そんな近郊農地は1920年代に当時の東京の人口急増の影響により、東急電鉄によって鉄道開発の対象地区となり、これを好機と捉えた衾村の人々は「耕地整理組合」を結成して宅地開発を進めていきました。そしてここから元衾村の村長であり耕地整理組合の組合長、そして大地主でもあった栗山久次郎氏が「自由が丘」という街に目を付けて発展させていくのです。
1927年に現在の東急東横線が多摩川駅(※)から渋谷駅まで延伸した事に伴い、現在の自由が丘駅にあたる「九品仏(くほんぶつ)駅」として開設します。しかしその年に開通した大井町線も二子玉川まで延伸するに伴い九品仏駅を廃止する話が持ち上がっていましたが、これに栗山氏は猛反発。東急電鉄の社長に直談判した結果何とか存続の成功を果たしたのです。栗山氏のこの直談判が無ければ、自由が丘という街はただ東横線が通過するだけの街に留まってしまう事となるため現在のような賑わいは見られなかったのです。
(※)桜木町駅(現在は横浜駅)まで延伸したのは1932年

そして「自由が丘」という地名となった経緯も気になりますよね。これには意味があって、1927年に教育者である手塚岸衛氏が「自由ヶ丘学園」という名前の学校を創立した事がきっかけです。手塚氏は自由主義教育の提唱者であり、彼の理想の教育を体現した学校が自由ヶ丘学園であり現在も自由が丘の地で教育活動に奮起しています。自由主義教育というのは話せば超長くなりますが、超簡単に言えば「子どもの自主性を向上させる為にも学校や学校活動を通じて指導していこう!」という理想主義みたいなものです。今までの学習方法では特に子どもにとって受動的であったとされており、手塚氏はこれに対して問題提起したという訳ですね。
そんな手塚氏がこの衾村に呼び寄せたのが、昔から付き合いがあり舞踊家を務めている石井漠氏です。モダンダンスというドイツとアメリカで生まれた劇場舞踊の先駆者であり、この土地を気に入った彼はここに「自由ヶ丘石井漠舞踊研究所」を創設しました。栗山氏は手塚氏や石井氏のような社会の異端者に居場所を与えた事で、多くの文化人をこの村に集め、やがて人々はこの村を「自由ヶ丘」と呼ぶようになります。元々は地名から「衾(ふすま)駅」となる予定でしたが、石井氏らによる熱心な要望活動もあって1929年に「自由ヶ丘駅」に改称し、元の名前である「九品仏」が現在の東急大井町線に乗り移る事になったのです。ここから萬屋しかなかった村が一気に発展を遂げ、駅前には商店街ができて文化の発信地として大いに賑わう街に変化していきました。
そして1966年に現在の「自由が丘駅」に再度改称され現在に至ります。

1960年代を迎えると駅前に丸井(2007年売却)や東急プラザ(現:自由が丘東急ビル)が開業。一気に今の大衆のイメージである若者・ファッションの街として定着し始めます。そして1965年に自由が丘駅の南口ができ1981年に東急ストアが開業すると、南口エリアには多くのアパレルショップが入るテナントビルが建つようになります。1990年には水の都・ベネツィアの街並みを再現した商業施設ラ・ヴィータがオープンしてメディアの注目を集めると、2003年には自由が丘スイーツフォレストが誕生しスイーツの街としても認知されるようになり知名度が全国クラスにまで発展していきました。現在でも随所にブティックや雑貨店が多く見られ、現在もオシャレな街として若者から年輩の方に愛されています。

そして現在の自由が丘が発展している背景に「自由が丘商店街振興組合」の存在も忘れてはいけません。1963年に設立したこの組合は、自由が丘にある12の商店街と1300軒の会員を持つ国内最大級の組織として今も自由が丘の発展に貢献しています。
講師である岡田先生はこの組合の理事長を務められています。1985年頃から組合に参加すると、ごみ問題の改善やクレジット決済を行うカード事業に携わって店側の煩雑な負担を減らすなど、自由が丘のさらなる発展に尽力されていました。そんな功労者の話を一言一句聞くと、言葉に深みがあって例え興味がなかろうと思わず聞き耳を立ててしまいます。

講義の舞台も「自由が丘」?

自由ヶ丘学園の記念碑

そしてこの「自由が丘とブランディング」という科目。講義は2日連続「街中」で行われます。いわゆるフィールドワークというものでして、閑静な住宅街から駅前付近の繁華街に至るまで先生によるレクチャーの元、生徒30名近くによる大移動が行われました。ちなみにこれだけの大人数を要すると生声で説明するには限度があるという訳で、生徒全員トランシーバーを付けながら歩いていきました。端から見たらなかなか異様な光景でして、道行く人から「宗教の集まり?」と誤解されました。やかましいわ。
夏が近付いてきている6月の初めという事もあり、強い日差しと湿度に襲われるこの季節。女性陣は日傘を差して日焼け止めを塗ってと万全な日焼け対策を施して授業に臨んでおりました。
約1時間ほど歩いて向かった先は駅前のとあるビル。飲食店や居酒屋といった店舗を構えている中に「自由が丘商店街振興組合」の本部が入っているのです。外観から昔料亭として使われていたであろうこの事務所は、随所にかつての趣を感じながらも立派なオフィスとして機能していました。

全員が集まった所でいよいよ本題へ。事前に決められていた班に分かれて再度フィールドワークを行い、街を散策しながら今抱えている「自由が丘の課題」について考えていきます。この時点で時刻は正午を回ったところ。ちょうどお昼ご飯の時間になりますが、食事場所は各班で自由に決めてOK。メンバーで相談し合い、1日目にパスタランチ、2日目にミックスフライを堪能しました。
特に2日目の「瀬戸」というお店のミックスフライ定食は外はサクサク、中はフワフワで思わずご飯を掻き込みたくなってしまうほどの美味しさで終始舌鼓を打っていました。夫婦で営んでおり、御二方ともとても愛嬌たっぷりの人柄に心も温かくなりました。長年自由が丘でお店を構えているとの事でしたが、長く続いている秘訣がよく分かります。また行きたいな。


みんなで考える「自由が丘の課題」

食事を終えた所で本題である「自由が丘の課題」を探っていきます。

まず気になったのは放置自転車の多さと道が狭すぎるが故の歩行しづらさ。前者は通学スクーリングで大学へ向かう際に気付いたのですが、大通り沿いはそこまででもないのですが脇道に入ると大量の放置自転車が多く目黒区や世田谷区も課題の一つとして取り上げているとの事。後者も大学へ向かう際の気付きですが、自由が丘駅の改札を出た目の前にバスロータリーがありそこから大学方面へ向かう際の商店街通りがあるのですが、そこでのバスの通りづらさは異常です。道幅が非常に狭く人通りも非常に多いので一般の乗用車でも難易度が高く、熟練した運転手でないと普通に事故ってしまいそうです。特に休日人で賑わうこの街だと通過するだけでも困難を極めます。歩行者側から見ても道の狭さからしばしば交通トラブルの元になりそうな場所を歩くのでなかなか大変です。

↓このあたり

他のメンバーは「今の若者にとって自由が丘のイメージが薄い」という意見もありました。これを提言された方は弱冠21歳の女の子という事で非常に説得力のある発言だと感じる一方で、自分のイメージしている自由が丘とはだいぶかけ離れているというカルチャーショックを感じずにはいられませんでした。自分も年を取ったという事ですね。はぁ。

絶賛制作中。筆者はタイトルと問題点①を制作しました
班で発表した施策プラン

2日目の最終日には各班で「自由が丘の課題」をテーマにした発表会が行われました。どの班も課題内容は多少の被りはあったにせよ、改善案については十人十色でユニークな意見も見られました。こういう発表ってSNSに書くと必ず否定意見が飛び交いそうですが、事前に先生から「意見に対する批判はNG」というルールもあって生徒皆が「思い切った意見」「面白い意見」として受け入れていく優しい世界でした。課題解決をするという点ではみんなが同じ方向を向いているのは確かですからね。筆者は連日の疲れでうとうとしていましたが…。

という事で2日間の講義は終了。くたくたの筆者はその晩早めに就寝して次の日忘れずにテストを受けました。
評価は最高評価のSでした。いや、自分途中寝ていたのだが…!?
でも嬉しいですね。美味しいものを食べて班のメンバーとコミュニケーションを深めていきながら単位を取れますし良いことづくめです。それに自由が丘は最近は下降気味とはいえ住みやすさランキングで上位に位置していますし、デートスポットとしても未だに人気である分オシャレな所や意外な顔を持つエリアもあって歩いていて楽しかったです。
皆さんも機会があれば「自由が丘とブランディング」の科目を受けてみてはいかがでしょうか。

という事で今回は以上になります。
今回もまた更新が遅くなったという事で、次回はなる早で更新することをお約束します!!
テーマは「新学期に向けての科目選択」です。サボってきた数ヶ月を取り戻していきたいと思います汗汗

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
次回をお楽しみに!

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