真実は球体

いつだったか忘れたけど、高校生くらいのとき、たぶん厨二病だったんだろうが、なんのために生きるのかをよく考えてた時期があって、今でもうっすらそのときに考えたことを主軸に生きているところがある。

その中の一つに、生きることとは、「真実を探求すること」というのがあった。

この世の中にはあらゆる事象があり、それぞれが複雑に影響しあっている

それらを私達は『人間の目』を通してでしか理解することはできない

世界って何?
生き物って何?
社会とは、文化とは、倫理とは...


私が考える「世界」と、環境の違うところで育った別の人の目から見る「世界」は全く違ったとして、

全部がきっと、正解である。
いや、正確には、全部がきっと、真実のエッセンスを含んでいる。

真実は球体のようなもので、私達一人一人、一つ一つの集合体からは限られたの角度からしかその球体を捉えることはできない

異なる人間や、文化圏や、思考方法や、言語によって見えてくる、違う角度からの「真実の球体」景色を組み合わせて、

やっとその球体の全容を少しずつ掴んでいくことができる

私達は限られた寿命の中で、できる限りその全容を掴むために、人と出会い、語り合い、本を読み、教えを請うて、学んでいく。

一重に、「真実」に少しでも近づくために。

そうして一人の人生で得られた宝石のような努力の証を、子孫へと引き継ぐために、私達は、思考の過程を記録する。

この世に存在する、
小説も、映画も、音楽も、絵画も、
全部その一部で、

それぞれがそれぞれの人生で得られた真実の伝承のために創られた記録なのだ。


何世代にも渡って、複雑で理解困難な真実を理解するために、私達は先人たちの出した答えを学びながら、また新たな角度から見える景色を探っていく。そうして得られた自分自身の知見を、後世の子孫たちの理解に役立てるよう、様々な形に残す。

これが、思考する生き物である人間の、生きる意味である。


私はそんな抽象的で脆弱な理念に基づいて、今までの人生、「自分と考えの違う人たち」と積極的に関わってきた。

目に見える真実の角度を広げるために。

考えが違う人や、育った国が違う人、脳内の思考回路が違う人。

角度が広がったのか、『真実』に近づいたのかはさておき、私はこれからもそうやって生きていくんだろう





ところでじゃあ、そこまでして求める真実って、なんですか?


さぁ...
まだ全然辿り着いてないのでわからないけど、なんだろうね



命の美しさ、とか?



それがなにかわかったときに、生きる意味もまた、もっとはっきりわかるような気がしている

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