なぜ音程が外れてしまうの
先生は、こんな歌を聴いていて
不快になったりストレスにならないんですか?
と、
自分の声に対して
セルフイメージが低い方が仰いました。
いや、まじで、ま、じ、で!
その方の声、全然不快どころか
良い声持ってる方なんですよ!!
わたしは即答で
不快になったりはしませんよー!
そんな事考えてるんですか?!
と言いました。
いや、本当に。しない。
しないんですよね。
慰めとかじゃない。
先生は耳が良いのだろうから
音程が合っていなかったりする歌を
聴くことは苦痛じゃないんですか、と。
なるほど…
鋭い、さすがだな、と思いました。
ただ、答えから言うと
不快には思わないんです。
悔しい!とかはあるけれど。
音程が合っていなくても
リズムがズレていても
不快というよりは
「なんで………」
「どうして………」
と感じています。
あぁ、音程が合わないということは
伴奏と調和したいという
積極的な想いになっていないんだな…
とか
リズムがズレるということも
同じく、伴奏と調和したい
自分の歌声とすべてが一体になりたい
その想いからズレているなぁ…
なんていう分析に入っています。
そしてジャッジしていないですね。
まず、ジャッジはしないという前提なんです。
ジャッジがないんです。
自由に歌うという領域には。絶対条件として。
前提として、ジャッジをせずに
自由を求めて歌いたいのだという心境でないと
本領発揮なんてできないですもんね。
◆
不快、って…もしかしたら
感じたくない、味わいたくないから
拒否や拒絶の感覚になっているからのかな、と
思ったんですよね。
つまり、不快=感じたくない
味わいたくない、という現れなのでは、と。
あー、ここ大事だなすごい。
うまく整理したい。
嫌だなぁ〜と感じる、っていうのは
感覚を使っているという言い方も
できなくはないけれども
嫌だなぁ〜、と感じるというのは
自分に起きているそのままの感覚を
拒否しているという感覚、ですよね。
うーわ、これ伝わるかな。
嫌だなぁ〜、という感覚を
感じるのだとしたら
まずジャッジしているのかも、ですよね。
自分の過去の痛みに触れているから
嫌だなぁ〜、と感じている…とも言えるし。
あぁー………
だからつまりこうだ
たとえば、音程が外れたとして。
歌っているときにね。
そしたら、うわ!外した
どうしよう、とか恥ずかしい、とか
腹立つ!とか…ですけど
厳しい教師や母親のように
だめでしょ !って自分にしているのかな、と
思うんですよね。
それを自分にやりながら
嫌だなぁ〜と感じながら
そうやって厳しく接されて
嫌だなぁ〜と感じる自分もいて…
◆
感覚が敏感すぎて
ストレスになっていたといえば
若かりし頃は
JR新宿駅のホームにでも行こうもんなら
発狂寸前でしたからね…
ジャッジ満載の頭の中だったので
聴こえてくる音に対して
ジャッジ、ジャッジ、ジャッジ。
山手線の発着音
総武線の発着音
あずさ、中央線…………
いっぺんに鳴るんですから
もう、それは可視化したとしたら
目の前に何十、何百という
絵の具をぶちまけられ続けるという感覚。
その状態をスルーしなければならない
でも、できない。
♫ソソラソドソミソソソラソドソミソソソラソシソレソソソラソシソレソソミソドドドミソ〜
(山手線たぶん外回り)
♫ミーーーレシラーーーシドレーーードシソーーーシソラーーー(中央線)
♫ミラシドミラソ〜 まもなく、○番線に……
(電車到着アナウンス)
………ちょっともうかれこれ
二十年以上前のことなんでどんな
発車メロディだったか忘れましたが
とにかく、同時にメロディが鳴り
それぞれリズムもバラバラ
こんな苦痛なことはなくて
ヘッドホンを忘れた時はかなり
しんどいものがありました。
この事象はHSP、まさにそのもので
絶対音感あるある、でもあるんですけれども
これってつまり
ジャッジがあったからしんどかったんですよね。
あと、こうであらねばならないという
信念から外れた事象が起きていることを
拒絶しているという「不快感」
もうね、中央線のコード感
メジャーの構成音と
スーパーあずさの発車メロディーの
コード感、マイナー音の構成音
あれが混ざると最低、最悪。
ですよね。わかる人絶対うなずいているはず。
ね!あれ最悪ですよね。
それは自分の美的感覚から
外れたものを押し付けられている感覚で。
絶対に受け入れられない、
だから「不快」だったんですね。
音というものを聴くと
自分の内側にあるピアノと指で
ドレミ…と一致したくなっちゃうんですよね。
個人的な感覚としては。
だから、一致したくないような
音の洪水に塗れると
不快でたまらない、という。
マインドが変わってからは
その、音感を鋭敏にして
感じて一致したい、ひとつになりたいという
標準装備な感覚は
ON-OFFができるようになったので
何にも苦痛ではなくなりました。
あとジャッジしている自分に
気づくことができたら
ノンジャッジなマインドに切り替えれば
なんてことはなく
音が通り過ぎていくようになった。
◆
これ、これまでの話を逆説的にいくと
すべてを感じていたいという
オープンなマインドでいたら
不調和は起こしようがないんですよね。
調和している状態に居続けたい、
感じ続けていたいと思うのが
当たり前になるはずなんですよね。
不快だと感じたらすぐさま
「ずれた!」「戻りたい!」と
反射的に思えるはずなんですよね。
でも、そのような反射的な事が
起こらないのだとしたら
これ思考が強めになっているっていう
事になっちゃいますよね。
語尾、よねよね言ってますけれども。
まぁ、とにかく
サッと心地よい調和の領域に
留まり続けたいという想いを持ち続けること。
その為には感じ続けていなければ
自分の現在地がわからなくなる。
だからといって
感じ続けなくてはならない…という
思考をしているのでは
感じ続けてはいない。
感じ続けたいという想い
その想いがピュアであればあるほどに
その領域から外れようがなくなっていく。
その領域というのは調和である
状態の起き続けている場所ですね。
歌、になり続けている状態が
起こり続けている場所だとも言い換えられますが。
◆
冒頭の
わたしの歌を聴いて
不快にならないんですか?という質問。
いや、これ本当に気持ちがよくわかる!
わたしも、もしも
丸裸で踊るとかいうレッスンに
参加するとかだったら
まったく同じことを先生に質問しますね。
つまり、自分が既にジャッジしていて
あたりまえに不快を感じている状態だから
周囲もそのように思って当たり前だろう。と。
あとは、こんな姿は
恥ずかしい、怖い…と
恐れを感じている状態ですね。
丸裸っていうのは。
でも、本当に歌うって言うことは
丸裸になるのと変わりがないっちゃあ
ないんですよね。
だから、多分類似性の高いものと
言っても過言ではないはず。
そんな、文字通り丸腰で
自分をさらけ出して歌うということに
自由を感じる、解放感を感じるのならば
それは素晴らしいことです。
そうではなくて
恐怖や不安、恥を感じているのなら
まずは、安心させてあげることが
一番、何よりも大切なこと。
ここをすっ飛ばしているから
気合い、根性、努力、を必要とするんです。
痛みを感じているのに
それを無視して突き進む、という。
それ、ほぼ100パー
身体は緊張走ってます。
身体は嘘つかないし、つけないから
絶対に強張る。
大前提として
安心、安全、リラックス、調和。
つまり、ジャッジがない。
まず、それが標準装備になっていただく。
それが土台として確かなものになっている上で
自由を表現する歌を歌うんです。
今回も半分ジャーナリング(書く瞑想)状態で
ラフに書いてみました。
そして、このへんで締めようかなと
思っています。
修正もせず出す文章ですが
脳内シェアのようなもの、です。
読んでくださってありがとうございました◎