『ファーザー』(フロリアン・ゼレール)〜映画を見ることと認知症

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

アンソニー視点

本作は認知症についてのストーリーですが、観客には自分事として見てほしいんです。
認知症の症状の一部を自分で経験しているような立場でね

 監督のインタビューにもあるように、観客に認知症の症状を追体験してもらうことが目指された映画です。それができるのは、認知症を患う主人公アンソニー(アンソニー・ホプキンス)の視点で物語られているからと言われています。
 もちろんその通りなのですが、主人公の視点というと、あたかも主観的な表現で描かれているかのようなニュアンスがしないでしょうか。

POV(主観)ショット

 映画において主観表現の最たるものは、登場人物の視点から撮影されるPOV(Point Of View)ショットでしょう。しかし、映画『ファーザー』で、主人公アンソニーのPOVショットは、さして多くありません。
 窓外を見下ろすアンソニーのショットに続くPOVショットが何度か出てくるのが(POVショットが数少ないだけに)印象的なのと、廊下から、夫婦がアンソニーの処遇について話している夕食のテーブルに移動するPOVショットが際立っているくらいでしょうか。
 実は、主人公アンソニーのそれと、ほぼ同じくらい娘のアン(オリビア・コールマン)のPOVショットがあります。

アン視点

 アンの場合もまた(親子で呼応するように)窓外を見下ろすPOVショットがありますし、何よりも年老いたアンソニーを(見られずに)見るPOVショットが印象的です。つまり、映画『ファーザー』は、主人公アンソニーだけでなく、娘アンの視点でも語られているのです。
 映画は、アンソニーが暮らすフラットに向かうアンの歩きから始まり(アンソニーが暮らす施設から去っていく、ラスト近くのアンとサンドイッチされ)ます。
 アンの視点(側)から物語が始まるようですが、その彼女の歩きを通してバックにかかっている音楽は、アンソニーがヘッドフォンで聴いているオペラだと後にわかります。そこにアンソニーはいませんが、聴取点(Point Of Audition)は、彼の主観なのです。
 このように冒頭から、アンソニーとアン2人の視点で展開されることが予告されています。

譫妄

 とは言え、この映画の主観表現とは、譫妄による幻覚でしょう。しかし、同じような主観表現であれば、アンにもあります。
 アンソニーの寝室へと赴き、寝ている彼の首を絞めるという彼女の妄想。
 ただし、ここには大きな違いがあります。
 主観POVショットが、その見ている主体のショットに挿まれ、カッコ閉じされるように、アンの主観である『妄想』もまた、後続する妄想から醒めた彼女のショットと、(遡及してそれとわかる)妄想に入る前の彼女のショットで、カッコ閉じされます。このようにカッコ閉じされる主観表現は、妄想の他にも、回想、夢などがありますが、どれも、入りと明け(少なくともどちらか一方)でカッコ閉じされることで、それ自体は(首を絞めるアンという)客観的な描写を、(アンの妄想という)主観的な描写に変えます。
 しかしながら、アンソニーの幻覚がカッコ閉じされることはありません。カッコ閉じされるべき彼の幻覚は現実と混濁し、まさに譫妄と呼ばれる状態に陥ります。描写の上でそれは、客観的な表現との混濁を意味します。つまり、主観的な描写はそこになく、あるのは客観的(?)な描写だけなのです、これが面白い。(直接話法のカッコが開かれた自由間接話法的と言ってもいいのかもしれません)

鏡の中の私

 私たち観客は、主観的な描写の施されたアン視点ではなく、カッコが開かれることで、客観的な描写と見分けがたくなったアンソニー視点を選び、あたかも認知症の症状を自分事かのように(主観的に)映画を見ます。

 なぜカッコが開かれた描写の方に惹かれるのでしょうか。

 そもそも映画を見るということが、認知症の症状のように現実と虚構が混濁すること、スクリーンというフレーム=カッコを開くことに他ならないからです。アンソニーの症状は、私たち観客の症状なのです。つまり、私たちは、アンソニーを通して認知症の症状を追体験したかのようでいて、私たち自身の映画体験を見ていたにすぎなかったのです。 

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